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婚約破棄された書記官令嬢は、沈黙図書館で辺境を立て直す  作者: 小竹X


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005 契約書は凍える港を黙らせない

 中央倉の鍵は、朝の机に出ていなかった。


 総務棟の窓硝子は内側から白く曇り、扉の前には荷役夫たちの列ができていた。誰も声を張り上げてはいない。かわりに、凍えた靴底が石床を短く打ち、湿った外套から河の匂いが上がっている。いら立ちが、よく乾いた紙より先に廊下へ積もっていた。


 私は文書箱を抱えたまま受付机へ進んだ。


「北便補給船の正式受領帳を見せてください。昨夜、仮受領の立会署名を入れています」


 帳場の男は、鍵掛け箱を閉じたまま私を見た。


「受領帳は後です。先に荷役番の名簿を作らねばならない」


「なら、中央倉の鍵を」


「領主様の朝裁可待ちです」


 そこへ、列の先頭にいた荷役頭が机を拳で叩いた。


「裁可待ちで腹は温まらん。夜荷を止めるなら止めるでいい。だが今朝も手当なしなら、誰が氷の樽を運ぶ」


 帳場の男が顔をしかめる。


「越冬荷役は保管領民の協力義務だ」


「なら契約どおり鍋と灯りを出せ」


 そのひと言で、列の後ろにいた何人かの肩が動いた。私はそこで初めて、机の脇へ置かれた綴じ紐付きの古い帳冊に気づいた。革表紙は角が擦り切れているのに、今朝の雪で濡れた指が何度もめくられた跡がある。


「見せてください」


 私が手を伸ばすと、帳場の男は嫌そうに帳冊を押し出した。


 北辺河港越冬荷受け規定。

 王都式の整った書式より古い、骨の太い字だった。


 冬季補給船到着の夜は、河港側が外灯三基、火鉢二台、荷役夫への温食一度を用意する。代わりに荷役夫は夜明け前の仮下ろしに応じ、正式照合は翌朝に移してよい。


 指を置くと、《契約読解》の糸が細く立った。規定そのものはまだ締まっている。だが最後の頁に挟まれた新しい命令紙だけ、繊維の向きが逆だった。


 冬季経費節減につき、夜間外灯は一基に制限。火鉢支給停止。温食は任意協力とする。


 命令紙の下端には、王都会計印の写しがある。だが越冬荷役の義務を止める文言はない。払う側だけを削り、働く側だけを残していた。船で見た積荷台帳と同じ削り方だった。


「任意協力で、誰が凍った樽を担ぐんです」


 私は命令紙を持ち上げた。


「規定では、温食と灯りを出したうえで夜明け前の仮下ろしを頼んでいる。これでは片側しか残っていません」


 帳場の男は鼻から息を漏らした。


「古い規定です。今は金がない」


「金がないなら、義務の側も止めるべきです」


「止めれば荷が溜まる」


「だから昨夜、灯油一樽だけ仮受領にしたんです」


 私は船から持ってきた訂正控えを机へ開いた。毛布二十梱、灯油六樽、全数積載確認済み。荷役頭が横から覗き込み、赤い船長印を見て顎を引いた。


「紙が正しくても、手は動かんぞ」


 低い声だった。怒鳴ってはいないのに、机の向こうの男よりずっと冷えが伝わる。


「先週、外灯一基で樽を落としかけた。片手が利かなくなって、寝台に転がったままのやつがいる。今朝の鍋だって、昨夜の残り湯をのばしただけだ」


 私は返す言葉を探すあいだ、自分の指先を見た。昨夜の薄い煮込みの温かさが、急に心細いものへ変わる。


 契約は読める。削られた場所もわかる。けれど、それだけで凍えた腕が樽を持ち上げるわけではない。


「では、今日のぶんを紙で残します」


 私は空いていた受領控えの裏を引き寄せた。


「荷役番の氏名を書いてください。午前中の作業に出た者全員分、越冬荷役未精算分として別帳へ立てる。温食は炊き出し小屋へ私が控えを回す。昨夜仮受領した灯油一樽から、外灯二基まで戻す」


「勝手に立て替える気か」


 帳場の男が声を尖らせた。


「立替ではありません。未精算を隠さないだけです。今まで無かったことにした分を、名前つきで残します」


 荷役頭は私の手元を見ていた。私は続けた。


「原本の規定がどこまで有効かは、後で確かめます。でも今日の荷は今日のうちに動かさないと、毛布も灯油もまた紙の上だけで減る。名も残らない働き方をさせる気はありません」


 廊下の奥で、誰かが咳をした。列の空気はまだ固いままだったが、さっきまでのような押し返す硬さではなくなっていた。荷役頭が机へ寄り、太い指で名を書いた。続いて二人、三人。墨の乾かない名が並ぶ。


 帳場の男は渋い顔のまま鍵掛け箱を開けた。中央倉の鍵ではない。荷役名簿用の印だった。


「外灯二基は、今朝だけだ」


「今朝ぶんを、まず残します」


 私は受領控えの裏へ日付を書き、荷役名簿の端に添えた。炊き出し小屋宛てに、温食六十食、越冬荷役未精算分と記す。昨夜の女がこれで鍋を増やしてくれるかどうかは、会って頼むしかない。


 帳冊を閉じる前に、最後の頁をもう一度見た。


 越冬荷受け規定の原本照合先。

 沈黙図書館第三保管架、河港誓約群。


 指先の糸が、そこだけ静かに張る。


 紙の上ではまだ切れていないものがある。けれど、それを引きずり出すには、この控えより重い鍵が要る。


 私は名簿と訂正控えを重ねて文書箱へ入れた。


 まず炊き出し小屋へ行く。次に、図書館の原本だ。

 鍋に湯が足され、荷役番の名の横へ印が押されて、ようやく今朝の荷は動く。その先で原本を押さえるまで、私はこの控えを離さない。

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