042 ミラは裏帳簿の持ち主を突き止める
灰綴十六には荷の名が無いのに、綴じ穴の位置だけが会計部の廃帳と合っていた。
朝の中央棟で、私は西三号前から持ち帰った灰色の細帳を窓へ透かした。紙は薄いのに、穴の周りだけ妙に固い。三つ穴の間隔が、今の会計部綴りより半指ぶん狭い。
「気づきました?」
向かいでミラが、昨日の船頭綴りと古い夜荷役戻控えを並べていた。彼女の指先は、穴と穴の間へ定規も当てずに止まる。
「これ、港のその場書きじゃない。綴りごと渡されてる。灰紙の戻し綴り。十年以上前に一度やめたやつ」
私は顔を上げた。
「港湾整理口が生きていた頃の?」
「生きてるから、昨日の船底から出たのよ」
ミラは灰綴十六を裏返した。
「今の綴りは白紙で、返送は赤端、保全は黒紐。灰紙は修補戻しの仮受けだけ。荷名を書かず、枝番だけで回せるから、昔から抜き取りに使われやすかった」
右端の小さな「仕修」の二字を、彼女が爪で叩く。乾いた音だった。
「貸出票が残っていれば、持ち主が出ます」
私は言った。
「出る」
ミラは短く答えた。
「でもあなたは来ないで」
思わず眉が動いたのが分かった。ミラはもう次の紙を引いている。
「あなたが河港の綴箱を開けに行くと、みんな先に背筋を伸ばす。貴族令嬢が来たって顔で、出す箱も遅くなる」
彼女は筆を滑らせた。
「私は一人で綴紐受払箱と色紙受払控えを見ます。その代わり、あなたはここで二本出して」
差し出された下書きには、題がふたつあった。
無副署別途調整停止。第十二束三葉照合済。
もうひとつは、灰綴持主照会札。
「照会札は誰宛てに」
「王都監査局と中央仕訳庫仕修席。両方」
ミラはそこで初めて私を見た。
「どっちが持ってても逃げられない形にして」
ローデリクが中央卓の端で封緘箱を閉じた。
「好きに散れ。昼の鐘までに戻らなければ、俺が港を掘る」
「昼まであれば十分です」
ミラは灰綴十六の写しだけを取り、原葉は私の机へ残した。
「それ、誰にも返さないで」
外套の裾が戸口で一度だけ揺れた。私は残された原葉を机の中央へ置き、仕修席宛ての文面から先に起こした。
北砦冬囲別途調整覚え写しより照合。夜見油二壺、替え馬飼葉三俵半数、無副署別途調整停止。第十二束三葉返送印欠二照合済。消灯刻限、追手見合わせ刻限、借用元、復旧刻限返答を求む。
書きながら、灰綴十六を視界の端に置く。薄い紙だ。けれど、見えている欄より、見えていない持出席のほうが重い。
昼前、最初に反応したのは王都監査局ではなかった。中央仕訳庫の使いを名乗る小男が、南門番に挟まれて机の前まで来た。濃紺の外套に、旅雪の白い筋が残っている。
「仕修席より申し入れです」
男は封も無い小札を差し出した。
「昨日の港の混乱で、修補戻し控えに誤綴があった由。雑綴一葉は本局返納を」
私は小札を受け取った。誤綴。返納。だが何をどこから返せとは書いていない。灰綴十六という語も、船名も、西三号も無かった。
「誤綴の題がありません」
私は答えた。
「票番も、貸出席も、借受席も、返納理由も」
使いの鼻先がわずかに赤くなる。
「修補戻し控え一葉です」
「では、こちらも一葉お返しします」
私は書き上げたばかりの灰綴持主照会札を差し出した。
「元綴所有席、貸出日、借受席、整理口戻理由、早鍵指図者、返送印欠数。埋めてお持ちください」
男は札を見たまま、受け取らない。そこへ戸が開いた。
ミラだった。河港の湿った風と、綴箱の古紙の匂いをそのまま連れている。左腕に細長い木箱、右手に三枚の控え。
「やっぱり先に来た」
彼女は使いを見て言った。
「灰紙だけ取り返しに」
木箱を卓へ置き、蓋をずらす。中には色の褪せた綴り表紙が何枚も寝ていた。白、赤、黒、その下に灰色。端には古い枝番が墨で振ってある。
「河港綴屋の廃箱です」
ミラが一枚抜いた。
「灰綴十三、十四、十五。全部、穴の位置が十六と同じ」
彼女は続けて、薄い控えを私の前へ滑らせた。題は、色紙受払控え。今冬分の行は四つしかない。そのうち灰紙は一行だけだった。
受払番号十六。色紙 灰。冊数一。
請求元 王宮会計局中央仕訳庫仕修席。
持出先 王都監査局臨検二掛立会用。
戻口 港湾整理口。
摘要 修補戻し仮受。
私は最後の欄を指で押さえた。摘要の横へ、あとから細く足された字がある。
西三号早鍵。
「筆が違う」
私は言った。
「ええ。受払控えを書いたのは綴屋。早鍵を書き足したのは持ち出した側」
ミラはもう一枚を開いた。
「それと、綴紐受払箱の貸出票。灰綴十六の借受印は無い。でも代わりに、監査局二掛の立会印の下へ、仕修席控え印が重ねてある」
使いの喉が鳴った。
「その控えは、本局の」
「本局の何です?」
ミラが遮る。
「修補戻しですか。保全返送ですか。争論荷の立会ですか。どれで借りて、どれで返すつもりでした?」
男は答えない。答えれば、どれかひとつでは足りなくなるからだ。仕修席と監査局と整理口を、灰綴一冊で跨がせていたのが見えてしまっている。
私は灰綴持主照会札を引き戻し、空欄の横へ赤い線を足した。
未回答の間、灰綴十六、船頭綴り底一葉、色紙受払控え写し、綴紐貸出票写しを北辺特別保管領係属とする。
「これで返します」
私は使いへ新しい控えを見せた。
「誤綴なら、誰の抽斗で誤ったのか先に書いてください」
ミラが木箱から灰綴十五を抜き、十六の横へ並べた。
「十五の戻口は河港北二号。十六だけ整理口戻。しかも請求元は同じ仕修席」
彼女は使いから目を離さなかった。
「持ち主は監査局じゃない。あなたたちの後ろの机よ」
男の手が、ようやく小札へ伸びた。けれど受け取ったのは、誤綴返納の小札ではなく、こちらの照会札のほうだった。灰綴十六の名を書かずに取り返す道は、もう無い。
戸が閉まると、中央棟は急に静かになった。静かでも、机の上の紙は増えている。灰綴十六。色紙受払控え。綴紐貸出票写し。仕修席への停止文。監査局への照会札。
「一人で十分だったわね」
私は言った。
ミラは肩の雪を払った。
「だから言ったでしょう」
それから、灰綴十六の摘要欄をもう一度指でなぞる。
「次は持ち主の机を開ける番です。たぶん、西三号だけじゃ済んでない」
私は照会札の控え番号を書き入れた。枝番十六の灰は、もう港の底ではなく、王都の机の色になっていた。




