023 ミラとエリノアの決算戦争
欠落していたのは、継馬帳の余白ではなく、食べた夜の勘定だった。
中央棟の決算室へ継馬帳三冊を運び込んだ時、ミラは椅子へ座る前に言った。
「先に決めておくけれど、見栄えのいい黒字を作る仕事なら私は降りる」
雪で湿った外套を外しながら、私は文書箱を机へ置いた。
「私もです。けれど、名無しの赤字を積み上げて満足する仕事にも付き合いません」
ミラの目が細くなる。
「嫌な返し方」
「あなたもです」
それでようやく、彼女は継馬帳を机へ開いた。私は雪延追補札の控え、南坂の石蔵の春待ち保存札、中央倉の臨時仮出庫札を横へ並べる。帳面の紙質はばらばらなのに、欠けている欄だけは同じだった。受取人。戻り刻限。差戻し先。
継馬帳の余白には「道中融通」が十二件あった。ミラはその横へ、鉄筆で淡々と数字を書き出す。燕麦六袋。干豆二袋半。銅貨建ての夜食代。私は雪の日の刻限だけを拾い、北砦便の請求控えと重ねた。
「七件」
私が言うと、ミラが顔を上げる。
「何が」
「この七件は北砦便です。雪延びの刻限と一致する。石蔵から干豆を切り出した日と、中央倉で燕麦袋を仮出庫した日も同じ」
私は一件ずつ指を置いた。夜半四つ、南街道第一継馬所。明け六つ、第二継馬所。翌朝二つ、北砦手前坂下。請求書の遅延日数と、継馬帳の「道中融通」がきれいに重なる。
「残り五件は?」
「混ぜないで」
ミラの鉄筆が私の指先を止めた。
「一致した七件までを追補札の未整備分として起こすのはいい。でも残りを同じ紙へ入れたら、向こうは全部を『雪のせい』で返してくる」
「返させません」
「返すのよ。王都でも砦でも、名前のない勘定はまず天気に埋める」
私は口を閉じた。紙の上では彼女が正しい。だから腹が立つ。正しい切り方を知っている相手の前では、言い逃れができない。
「では分けます」
私は空き紙を引き寄せた。
「今冬消費、春季第一便精算、欠損保留」
ミラが眉を動かす。
「三段?」
「継馬所でその夜に人足と馬へ入った分は今冬消費。砦便の遅延日数に対応して、請求先まで繋がる分は春季第一便精算。刻限も受取人も戻りも無い五件は、雪のせいにせず欠損保留で止める」
「止めるだけなら、また眠る」
「だから保留札を付ける。継馬所番、会計部、受取先未詳。三印が揃うまで月締めへ流さない」
ミラはしばらく黙り、次に私の書いた三段の右端へ新しい欄を足した。照合根拠。相手方控え有無。返納期限。
「あなた、勝ち筋が見えると請求先を先に作る」
彼女は顔を上げないまま言った。
「その癖、嫌いじゃないけれど危ない」
「あなたは負け筋が見えると、先に埋めて逃がさない」
私は干豆の出庫札を七枚へ分けた。
「その癖のおかげで、私の紙も勝手に走らずに済んでいます」
そこで初めて、ミラが短く息を漏らした。笑ったのだと気づくまでに少し掛かった。
「なら喧嘩のまま進めましょう」
そこからは速かった。七件の雪延び分は、北砦便二便と南街道折返し一便へ割れた。燕麦四袋半。干豆二袋。夜食銅貨六。うち春季第一便精算へ回せるのは銀貨三枚と銅貨八。継馬所でその夜に切って終わる今冬消費は銀貨二枚と銅貨四。残る五件は、燕麦一袋半と夜食代三件、あわせて銀貨一枚と銅貨九の欠損保留になった。
私は継馬帳の「道中融通」の横へ、初めて受取人を書き込んだ。北砦走り。夜番人足。替え馬四頭。名が入るたび、余白が余白でなくなる。ミラはそのたびに会計部副帳へ同じ番号を移し、返納期限を明朝ではなく春季第一便の日付まで延ばすもの、今夜で締めるもの、印の足りないものを迷いなく切り分けた。
扉が二度だけ鳴り、ローデリクが決算室へ顔を出した。
「まだ戦っているか」
「ええ」
ミラが即答する。
「ただし、今は同じ机で」
ローデリクは私たちの間に広げた三段の紙を読み、空いていた一番上へ領主印を置いた。
「欠損保留は、この部屋から出す前に俺へ回せ。雪の一字で呑ませるな」
それだけ言って扉を閉める。冷えた隙間風の代わりに、卓上の灯りが少しだけ安定した。
夜明け前、最後の一件が割れた。二重に記された燕麦半袋は、北砦便ではなく継馬所の馬丁が中央倉戻しのつもりで口だけ残した分だった。ミラが線を引き、私は欠損保留から外して今冬消費へ移す。銀貨一枚と銅貨九だった欠損は、銀貨一枚と銅貨四まで縮んだ。
「これなら出せる」
私が言うと、ミラは首を振った。
「違う。これでようやく、隠せなくなる」
彼女は完成した差引帳の題へ、ためらわず書き足した。
継馬雪延差引帳。
私はその下へ、照合根拠の最初に三つの名を書いた。継馬帳。雪延追補札。春待ち保存札。
別々の机で生まれた紙が、ひとつの赤字の持ち主を指している。明け方の鐘が鳴る頃には、酒場で噂になるより先に、会計部と河港の板へ写しを出せる形になっていた。




