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婚約破棄された書記官令嬢は、沈黙図書館で辺境を立て直す  作者: 小竹X


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024 噂好きの酒場は数字で黙る

 河港筋の酒場の掛売り帳には、北砦便の夜食代を戻す欄が無かった。


 継馬雪延差引帳の写しを河港へ回した日の昼、私は中央棟へ戻る前に、河港筋の酒場へ寄った。扉を開けた途端、煮豆と麦酒の匂い、それから言いさした声が一緒に止まる。


「豆一粒にも名前を書かせるお嬢様だ」

「次は鍋の湯気にも印を取るんじゃないか」


 笑いは長く続かなかった。女将が帳面を閉じる音のほうが大きかったからだ。厚い手で革表紙を叩き、彼女は私へ顎をしゃくる。


「取るなら、まずこっちだよ」


 机へ置かれた掛売り帳には、冬の夜だけが煤けて残っていた。南一。南二。坂下。熱豆鍋三。薄麦酒二。品と数と日付はある。けれど、誰に出し、どこへ戻すかが無い。継馬帳の「道中融通」と同じ欠け方だった。


「いつの分です」


「雪が深かった三夜さ。継馬所の子たちと砦走りが、凍えた顔で戸を叩いた。所番はあとでまとめて戻すって言ったけどね」


 ミラが私の横で差引帳の写しを開く。欠損保留の末尾に残した三行。夜食代三件、銅貨四。日付だけが、この掛売り帳とぴたりと重なった。


「数字は合う」

 ミラが低く言う。

「でも名前が無い」


 私は帳面を閉じず、そのまま酒場の中央へ向き直った。


「二月六日、夜四つ。南街道第一継馬所から来た方」


 木椀を持つ手が、いくつか止まる。けれど誰も口を開かない。さっきまで私の話で笑っていた男たちが、急に鍋の湯気を見始めた。


「豆鍋三椀、薄麦酒一杯。銅貨一」

 私は日付の下へ指を置いた。

「二月八日、明け六つ。第二継馬所。豆鍋二椀、銅貨一」

 次の行へ移す。

「二月九日、夜半。坂下便。豆鍋二椀、薄麦酒三杯。銅貨二」


 奥の壁際で、砦走りの少年が椀を置いた。南街道継馬所で、火鉢の横にいた子だ。今日はもう頬の赤みが戻っている。


「最初の夜は、俺です」

 少年は立ち上がり、濡れた前髪を払った。

「第一継馬所で馬を替えて、坂を越えられなかった。鍋は俺と夜番ふたり」


「二つ目は俺だな」

 荷車引きの男が、照れたように片手を挙げる。

「第二継馬所で車軸を温めてた。あの夜は女将に助けられた」


 三つ目の行では、外套姿の年嵩の男が無言で前へ出た。名を聞くと、彼は口ごもらず答えた。豆鍋二椀、薄麦酒三杯、連れは坂下便の人足ひとり。酒場の中で、ようやく湯気の行き先が揃う。


 私は新しい紙を抜き、掛売り帳の横へ重ねた。


「払っていないのは、この人たちではありません」

 女将へ向けて言ってから、部屋の全員に聞こえる声へ直した。

「誰の夜かが紙から落ちていたから、女将が冬の勘定を抱えたままだったんです」


 笑っていた男のひとりが、椀の縁から目を上げる。

「じゃあ、あんたは取り立てに来たんじゃないのか」


「逆です」

 私は差引帳の写しを開いた。

「この銅貨四は、欠損保留で止めてあります。名前と刻限が戻れば、今冬消費として切れます。雪のせいで消すためではなく、ここへ返すために」


 ミラがすぐに雪延追補札の控えを引き寄せ、右端へ新しい欄を足した。立替先。椀数。鍋代。受取人印。酒場のざわめきより、鉄筆の音のほうが細く通る。


「今夜から、継馬所で鍋を立て替えた分もここへ入れる」

 彼女は女将へ紙を滑らせた。

「所番と食べた本人の印があれば、月締めへ沈めません」


 女将はしばらく何も言わず、追補札の欄を見ていた。それから、自分の掛売り帳を私のほうへ押しやる。


「だったら、今までの三夜もあんたの紙へ移しな」


 私は名を書いた。第一継馬所夜番二。砦走り一。第二継馬所荷車引き一。坂下便人足一。薄麦酒四。豆鍋七。銅貨四。ミラが横で票番を振り、女将が親指で受取欄を押さえる。さっきまで噂のために動いていた視線が、今は銅貨一枚ぶんの行へ集まっていた。


「俺の名も書いてくれ」

 最初に笑っていた男が、椀を持ったまま席を立った。

「二月九日の坂下便、鍋は俺も食った」


「もう書いてあります」

 私は行の末尾を見せた。

「人足一。あなたの名が入れば、人足一ではなくなります」


 男は黙って頷き、指先の荒れた親指で印を入れた。続けて、壁際のふたりも前へ出る。誰がどの夜にいたかを、もう隠そうとしなかった。


 女将は書き終わった追補札を受け取り、酒樽の横の柱へ結びつけた。

「鍋の湯気に印は要らないと思ってたけどね」

 彼女は鼻で笑い、それでも紙から目を離さない。

「誰の腹へ入ったかが戻るなら、次の雪夜も鍋を止めずに済む」


 表の戸が開き、河港帰りの人足がまた二人入ってきた。柱に吊られた新しい紙を見て、片方が女将へ訊く。


「今夜の鍋、外門詰所のぶんも書けるか」


「書けるよ」

 女将は即座に答え、空いた行を指で叩いた。

「食うなら名を置いていきな」


 酒場の中で、もう私の噂を続ける声はなかった。代わりに、今夜はどこへ何椀出すか、誰が受け取るか、そんな話ばかりが飛び交っている。


 私は差引帳の写しを閉じた。欠損保留から銅貨四を外した紙は、朝より軽い。けれど、柱に揺れる追補札のほうは、今夜の鍋のぶんだけ、これから重くなるはずだった。

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