第6話 マリー
三日後。
グレーテは自分にあてがわれた部屋で、「素案」と書かれただけの真っ白な紙と対峙していた。もちろん、兄から命じられたアールデルス伯爵領の経済を活性化させる案を書きつけているのだ。
「……」
何か思いついて書きつけようとしても、ペンを動かす手が止まる。
罪悪感と——疲労のせいだと思う。
頭がうまく働かないのだ。
ディートハルトのところから出て行ってから、どっと疲れが押し寄せている。
幸い大きく体調は崩していないものの、めまいや疲労感は拭えなかった。
よほどディートハルトとの夫婦生活がグレーテの心を苛んでいたのだ、と気付いた。
(物事が終わってから疲れることってあるんですね……)
頬杖をついて息を吐いた。まるで体の中に溜まった澱を吐き出すかのように。
口をぽかんと開けて肩を落としたままぼうっとしていると、パタンと自分の部屋の扉が開け閉めされる音が聞こえた。
「お帰りなさい!」
鈴を転がしたような声が聞こえたので振り向くと、亜麻色の髪をおさげにした、青い瞳の十五歳ほどの少女が立っていた。
グレーテは笑みを作った。
「——ああ、マリーちゃん」
兄・エルヴィンの妻、マリー。グレーテよりも十歳ほど年下の彼女は、明るくて人懐こい性格をしている。
兄とは完璧なる政略結婚で、マリーが六歳くらいの時にアールデルスにやって来た。
グレーテがディートハルトに嫁ぐ際に別れを惜しんだ時にはまだ十歳にもならず本当に小さかったのに、五年という月日はあっという間にマリーを成長させていた。
「随分背が伸びましたね?」
「毎日牛乳を飲んでるからかもしれません! お久しぶりです。帰って来てくださって嬉しい!!」
マリーはグレーテの首に抱きついて笑った。グレーテが抱き返そうとした途端、「あ」と目を見開き、腕を緩める。
「喜んじゃダメでした……。姉様は凄い大変な目に遭われたとお聞きしています」
「そんなことないんですよ。喜んで頂けて嬉しいです」
グレーテはマリーを見て穏やかに笑む。マリーの無邪気な好意がただただ心に沁みて嬉しい。
ところが、何か言いづらそうにマリーはおずおずと唇に手をやり、周囲を窺った後、ヒソヒソ話をするかのように口元を手で隠した。
「重臣の話を聞いたんですけど、ハルトマン侯爵殿下が自ら山賊を率いて大暴れし、そこに槍と剣を両手に持ったグレーテ姉様が乱入して、殿下の首根っこを掴んで連れ戻ったというお話は本当ですか!?」
「……っ?!」
話がいろいろと端折られている。しかも、槍も剣を振り回してなどいない。
「ち、違うの」
グレーテは声を上擦らせた。自分がまるで怪力の女傑のように扱われているし、事実をちゃんとマリーに伝えなければならないだろう。
「ハルトマン侯爵が極秘裏に、最下層の家臣に山賊のふりをさせて村二つ分の小麦を盗ませたのですよ。私は彼を連れ戻してなんていません! 激怒したヴァールストレーム公爵様からお手紙をいただいて、ただひたすら『お許しください』と謝罪していただけでして……」
少女に向かって声に出して説明すれば説明するほど、なんという珍事件に巻き込まれたのだと思えてくる。
「……ハルトマン侯爵殿下が山賊になって、姉様が騎士の格好をして連れ戻したわけじゃないんですね」
マリーは心底残念そうにため息をついた。十五歳の少女の、「義理の姉は山賊よりも強い女傑なのではないか」という夢想を崩してしまって、そちらにもちょっと申し訳なさを感じる。
しかし、自分は大の男を抱えられる強い女ではない。変な噂は訂正しておかなくては。
「そう。そうよ」
グレーテはマリーの肩をぽんぽんと叩いた。女騎士の龍退治のような光景でも想像していたらしいマリーはがっくり肩を落とした。
だが、すぐころりと表情を変え、グレーテの顔を見つめてきた。
「それよりグレーテ姉様、顔色が悪くありません?」
「……えっ」
ばれている、とグレーテは義妹の目ざとさに舌を巻く。
「ああ、……ええっと、いや……」
「?」
「何でもありません」
「……」
マリーはグレーテをじっと見た。視線をグレーテの手元へ滑らせ、「素案」としか書かれていない紙を見つめる。
何事かと疑問に思っていると、マリーは半目になってじとっとした表情をする。どうやらグレーテが何にも集中できていないことを見抜いたらしい。
「何ですか? その紙」
「えっと、お兄様からアールデルス伯爵領の経済を活性化させる案を考えろと言われて」
「ふうん。でも紙は真っ白です。姉様らしくありません。やっぱり、疲れてらっしゃるんですね」
「えっと」
グレーテが表情を取り繕って紙に向かおうとすると、マリーはグレーテの腕をぎゅっと引いた。椅子がぎぎぎ、とずれ、グレーテはふらつきかけて立たざるを得なくなる。
待って、と彼女は義妹を見る。本当に成長した。腕の力が強くなっている。
義理の姉を立たせた少女は弾んだ声を出す。
「アールデルス領にも春が来そうなんですよ! そろそろお花畑に花が咲いてるかも! 一緒に参りましょう!」
「ま、マリーちゃん!?」
グレーテはマリーに引っ張られながら、素っ頓狂で焦った声を出す。
マリーのいう「お花畑」とは、城の後ろにある崖に囲まれた野原だ。春、雪が解け始めてから花が咲き、秋まで花を楽しむことができる。
花々の豊かな色彩や芳しい香りは心を和ますため、アールデルス伯爵家の人間はこの城の裏の窪みをこよなく愛している。グレーテももちろん好きだが……。
グレーテはマリーにぐいぐい引っ張られ、半ば引きずられる格好で廊下を歩かされた。本当に元気いっぱいな子だ。
「待って! 待ってマリーちゃん! 自力で歩けるから!!」
そう叫ぶと、マリーは腕の力を緩めた。グレーテは少しだけ姿勢を整えると、マリーと共に外へと向かった。
向かわざるを得なかった。




