第5話 最悪だ! 最低だ!!
馬車から降りると、一面に広がる茶褐色と霧が目に焼きついた。
つんと刺すような冷気と、広がる冬の霜混じりの枯野。その枯野にまるで重くのしかかるような霧。
霧の細かな水滴が肌だけではなく服にも付着した。
アールデルス伯爵領に入った。
グレーテの故郷の領地だ。
帝国の西は南から順にグレーテが出てきたハルトマン侯爵領、ヴァールストレーム公爵領、そしてアールデルス伯爵領がある。そのまわりに、中小の諸侯たちが衛星のように固まってひしめきあっている。
アールデルス領は北のほうに位置していて涼しく、よく霧に囲まれている。太陽は滅多に出ないし、夏も大変短い。
グレーテは、正直、そんな故郷が嫌だった。
(結婚した当初は、二度とこの地に帰ってくるかー! と思っていましたが……)
戻ってきてしまった。
(でも、……なんかこう)
今となってみれば、すべてが懐かしいように感じる。
たちこめる霧も、ほとんど何もない野原も、突き刺す冷気も、くぐもった草の匂いも。
「……帰ってきました。ただいま戻りました」
グレーテは深々とお辞儀をした……ところで。
「グレーテ……何を感傷に浸っているんだ……?」
地獄の底から湧き出るような声に振り返ると、一人の男が立っていた。
体格には恵まれているのに、焦茶の髪が鬱陶しく目までかかっている。目つきはどこまでも陰気。漂わせる雰囲気はまるで葬式帰り。かつて、「死相が出ている」と言われたこともある。
エルヴィン・アールデルス。アールデルス伯爵。アールデルス伯爵領領主。グレーテの長兄だ。
「お兄様、ただいま戻りました」
グレーテは急いで頭を下げる。エルヴィンの瞳が翳った。
兄は深々とため息をついた。
「グレーテ、話がある。アールデルス伯爵領とハルトマン侯爵領はこれから一切の交流を断つ。何の取引もしない。ああ、最低だ……」
兄の低すぎる声と枯野に吹き渡る冷たい風が、グレーテの頬を打つかのようだった。
「え?」
「……」
ひょっとして妹が無理やり離縁されたことによる報復だろうか。
「そこまでは望んでないですよ!? お兄様」
「違う」
兄は苛々と妹を見た。従者に指示してグレーテの荷物を迎えに来た馬車に運び込む。
グレーテと一緒に馬車に乗り込むと、エルヴィンはため息をついた。
「お前の離縁に関することには変わりない。だが、お前の考えていることとはまるで違う」
「え?」
「うちの家臣団が——」
エルヴィンは額に手をやった。髪がかき上げられ、グレーテそっくりの菫色の瞳があらわになる。
「ひどく激怒している。この帝国で離婚というものがどういうことか理解しているか?」
「え?」
「『てめーんところのグレーテ、落ち度しかねえからな』と宣言するのと同じだ。お前はアールデルスが一応それなりに手をかけて育てた娘だ。しかもまだ二十五。『子供を産めないから離縁』というには早すぎる。アールデルスの家臣団からするとあまりに腹立たしい。ハルトマン侯爵が『若くて有力な皇女欲しさにグレーテを捨てた』ということがありありと見えてくる」
「……それは事実ですし〜」
「事実ならなおのこと悪い。この世の中は信用で成り立っている。俺自身も気に食わなかったし、家臣の突き上げにもあったので、アールデルス伯爵領とハルトマン侯爵領は交流しない。商人達にもそう通達した。何かハルトマン侯爵領に送りたいものがあっても送れないぞ」
「え!?」
グレーテは悲鳴をあげた。
宝石を実家の銀行で換金してハルトマン侯爵領に送金しようと思っていたのだが。
それを兄に伝えると、にべもなく首を横に振られた。
「無理だ」
「領主の妹としてそこをなんとか……」
「無理だ。もう通達を出した。商人たちは我が領地とハルトマン侯爵領との商業取引を停止することで合意している」
「あっ、じゃあ、ヴァールストレーム公爵領を経由して……」
「ヴァールストレーム公爵領とハルトマン侯爵領が一番きな臭いとお前自身が一番承知しているだろうが。アールデルスは娘を侮辱された。ヴァールストレームは小麦を確か……」
「村二つ分」
「そう、途轍もない量の小麦を奪われた。ヴァールストレーム公爵領にはもうハルトマン侯爵領との行き来は一切ない。よくお前が帰って来れたなと感心している」
「元とはいえハルトマン侯爵家の縁者ですので、ヴァールストレーム公爵領からの報復が怖かったので……小さな領地へと迂回しまして。というか! 宝石売って少しでもハルトマン侯爵領の税収の足しにしたいんです」
「知らん。お前はもうハルトマン侯爵領とは関わりない」
「……」
「向こうからしても離縁された元夫人から送金されたところで金の用途に困るに決まってる」
グレーテはうつむいた。そう断言されてしまうと何も反論できない。
「私はどうしたら……」
「知らん。城に部屋は空けてやるからそこで寝起きしていろ。……最悪だ……だからディートハルトとの結婚には私は反対だったんだ。あいつは自己中心的だ。絶対問題を起こすと亡き父上や母上に申し上げたのに……はぁ……」
「……お兄様」
「で、だな」
兄は真剣な表情をした。だが、その真剣な表情はあまりに死相が漂っているので自然と悪寒が走る。
「最悪だ……。ハルトマン侯爵領との商業取引を切っただろう?」
「はい」
「おかげでたぶん、次年度からはうちの経済が落ち込む」
グレーテは馬車の中で腰を抜かした。
つまり、だ。
グレーテが離婚されたことで、アールデルス伯爵家としては激怒せざるを得ない。結果、ハルトマン侯爵領との様々な交流をストップしたのだが。
結果的にそれは、帝国のあちこちで物を売り買いする商人の活動を制限することになる。経済が冷え込むことになるらしい。
兄はグレーテの襟首をがしっと掴むと、全力で揺さぶった。
「この傾国の美女がぁぁぁぁ!!」
「ぎゃああ! お兄様!! なんて言いがかり! 理不尽なおっしゃりよう!!」
「理不尽なのはこっちだ! お前が離縁されたショックの波及でうちの経済が傾くかもしれないんだぞ! 最悪だ! 最低だ!!」
馬車のなかなので、御者が「旦那様! お嬢様! 馬車が壊れます!」と注意してくる。
「どうにかしろ。グレーテ。うちの城で寝起きする以上、考えてもらうからな」
襟を離された。
(どうにかしろとおっしゃられましても!)
グレーテは額に手をやった。
軽率なことをしたのか、これで良かったのか、グレーテにはいまいちわからない。




