玖ノ肆夜 心長し
極楽浄土の水鏡から、万物の有涯を見届けた。空には原初から月が昇り、極楽浄土の澄明な水面からも姿が窺えた。望月の艶かしい金色は細かな水紋の息吹に合わせ、身動いで、満盈は碎け散りしばし淡く融ける。月影に誘われ見上げれば、幽玄な烏夜のいただきに金箔の様な明月が浮かぶ。水を這う月と変わって物静かな盈月の神秘に酔う。余は、いただきの満月に想いを馳せ、やがて瞳の色は金箔の色を移した。
しかし儚くも、憂き身な月は妖力を纏い、満ちることを辞め、かつての面影は消滅した。枯淡とは程遠い余の心中はその身を案じ、烏夜へ沈む赤黒い上弦の色を瞳に宿した。
常無しこの世。まほろばは、このようにして消えゆくのか。それが堪らないならばいっそ、余の身を下界に降ろし、月身まかるのを阻止できないものか。それでも尚あの映え映えし月を取り戻せないのなら、せめて冥界が、彼の安楽の地であれば。
日輪を名に持つ少女とその父親が仲違いを起こしたあの日、余は父親を追いかけた。その果てに謝罪を受けた様な気がするが、浮世を見集む余にとって、所詮ありふれた万物の事象。謝られることではない。
「うり姫は確か、想いを馳せたものの色がその瞳に移るんじゃったのう。その赤色は……」
閑話に、彼は余の瞳を話題へ取り入れた。「金魚」と余は誤魔化した。
ただ幾千幾万の歳月、月を眺めていただけだから。
☽
赤い月とよく似たうり姫さんの瞳を見つめて、あたしは静かに問いかけた。
「月は、強い妖力を感じて赤くなるのでしょう。けれどあたし気になったのよ。月はどうして、あたし達のすぐ近くにいる妖力だけを教えてくれるのか」
「月はどこに居ても見えるのに、そなた達の付近にいる怪奇だけ感知するのは不自然、ということ?」
「ええ。月は冥界の神なのでしょう?冥界の神はどうしてあたし達にだけ、強い怪奇の存在を伝えてくれるのかしら」
うり姫さんの表情は変わらず、時折あたしの言葉を補足するだけで黙って聞いている。それでもあたしは、うり姫さんが補足した、という事実だけで、なんとなく手応えがあったように感じていた。まだあたしはうり姫さんの瞳を見つめ続けた。
「それに、あたし達魔法少女の他にも、各地域には八百万の神様がいて、怪奇の対処にあたっているのでしょう?それなのに赤い月の示す所へ向かっても、うり姫さん以外の神様とは出会ったことがないわ」
「各地域に居るのなら、その地域の対処に忙しくしているだけかもしれない」
「それでも赤い月よ?あたし達の地域ばかり反応しているのだとしたら、きっと見過ごせないはず」
「——つまり、入佳は何に気づいたの?」
やや俯いて顎に手を添えたうり姫さんの瞳はまだあたしを向いて、少し上目遣いになっている。鮮やかな赤の瞳は付近の光に反射し妖しく輝いていた。
「月はもしかして、強い怪奇がいることを伝えているのではなくて、冥界の神が自身の近くにいる強い妖力を感じたことで、月が赤くなっているだけなのではないかしら」
「というと」うり姫さんは首を傾げた。
あたしは続ける。「冥界の神は、ずっとあたし達のすぐそばにいたんじゃないかしら」
「……入佳は、それが万だと言いたいの?」
「そうよ」
うり姫さんは一呼吸分の間だけ目を瞑ると、やがて黙って夜空を見上げ、赤い瞳は横を向いた。
「入佳はよく月と余の瞳を見比べる。余だとは思わなかったの?」
空を見上げたままのうり姫さんの横顔に、あたしはさっきまで忘れていた笑顔を向けた。
「だってうり姫さんは、神々の母という神様でしょう?」
「神の役目がひとつとは限らない。それが万という神」
うり姫さんの空を見る目が僅かに細くなる。表情はあまり変わっていないのに、その微細な変化が、あたしは悲しい思いを秘めているように見えた。
「万さんは冥界の神だけではないの?」
うり姫さんはいつもの表情で、再びあたしの瞳に顔を合わせた。赤い瞳がまた正面から映る。
「冥界の神でもあり、月の神。けれどそれは本来あるべきではない定まり。神が二つの役割に属することはない」
「どうしてそうなってしまったのかしら」
「……月の神は、死した妻を追いかけ黄泉の国へ行き、怪奇と成り果てた。黄泉の国の住民となった神は月の神であると同時に冥界の神にもなった。けれど本来、それは許されざる事象。月の神という役目は徐々に剥奪され、彼の身は忽ち冥界に引き戻されるようになった」
うり姫さんの声色は普段より低く、万さんの身に取り返しのつかない事が起きていると知れた。それと同時にあたしは恐ろしい事実を察してしまう。
「まさか、万さんが居なくなって月が消えたのは——」
うり姫さんは頷く。「月の神はもう、現世から消えてしまった」
頷いた顔が再び上がることはなく、睫毛の影が下瞼にかかる。「なんてこと……」と呟けば、ようやくうり姫さんと目が合った。
「万さんは今、冥界にいるの?」
うり姫さんの静かな瞳はあたしから逸れて、彼女が常に履いている爪先立ち専用の特殊な厚底下駄が器用に回れば、彼女は完全に背中を向けてしまった。そしてまた、夜空を見上げる。
「余は彼の身を案じ、下界に降り立った。余がそなた達に協力したのは、月の神が冥界へ行くのを阻止したい願いもあった」
「このままでは怪奇だけの世界になってしまうと言っていたわよね。月の神が居なくなるともっと大変なことになるのかしら」
うり姫さんは月を見上げたまま頷いた。
「空の明かりが完全に消え去れば、結界は機能を失くす。そして月の神が消えたと知った日の神は彼の後を追い、烏夜国は永久に夜の国となってしまう」
冥界へ続く結界が薄くなってから危険な怪奇までもが地上に溢れ出し、町は既に怪奇で一杯だと万さんが言っていた。それに月はうり姫さんの阻止も虚しく消えてしまった。もうこの町に時間は残されていないはず……。
「うり姫さんは怪奇さん達を浄化してくれていたわよね。こうなることを心配して、対策してくれていたのでしょう?」
けれど、うり姫さんはすぐに答えず、空を見上げていた頭は静かに俯いた。
「——余は、彼を救いきれなかった未来を思って、彼にとっての冥界が安らぎの場であることを望んだ。余は摂理を守る為に彼を阻止したかったのではない。ただ、人や怪奇や神々、余の愛する者達が安らかでいられる世を望んでいた。そして——余はただ、月に惚れただけ」
うり姫さんが再び空を見上げた刹那、うり姫さんの突然の言葉に「え、」と声を漏らした。驚いて、あたしは意味を理解するのに数秒かかってしまった。そんなあたしにうり姫さんは「入佳」と背中を向けたまま呼びかける。
「余の本質は欲。万物を等しく愛すゆえ、感情的に守りたいと思い、感情的に愛でたいと思ってしまう。余の行動原理は理屈より感情論。誰かと楽しむことも、誰かが悲しむのを嫌がることも、余は捨てきれない」
あたしはうり姫さんの背中を見て一切逸らさないでいた。「入佳」と、もう一度、うり姫さんがあたしを呼ぶ。
「無欲は清らかか」
そんな問いかけに、あたしは自分自身の両手を胸に当てて答えた。「いいえ」
「誰かと一緒にいたい、楽しみたいという欲もあって良いと思うわ。だってそれも、とっても素敵なことだもの」
あたしが答えたあとも、うり姫さんはしばらく夜空を見上げたまま静かだった。その背中はある瞬間突然動いて、前に重ねられていた両手は身体の回転と同時に後ろ手に変わり、髪が揺れる。うり姫さんの厚底下駄がくるりと回って、振り返った表情に普段の物静かな印象はなく、穏やかで無邪気な、彼女らしい満面の笑顔が弾けていた。
「余もそう思う」
うり姫さんらしい笑顔だったのに、うり姫さんの笑顔は見た事がなかった。珍しいのになぜか珍しく感じられない。それはきっと、うり姫さんがあたし達と居る間、内心ではずっとこんな顔をしていたからだろう。あたしはそんな笑顔に少しだけ驚いて、やがて微笑み返した。
「うり姫さん。あたしも皆のことや万さんのことを大切に思っているわ。だからあたし、万さんを助けに行ってくる」
あたしはうり姫さんをしっかり見つめた後、早速屋根を降りていこうとした。うり姫さんは、そんなあたしを咄嗟に呼び止めた。「結界の近くは危険」
屋根を降りかけたところで振り返り、うり姫さんを見た。うり姫さんの表情は殆どいつも通りに戻っている。
「あたしは万さんによく助けて貰ったわ。怖がりだって、万さんと成さんが克服させてくれたのよ。だから今度はあたしの番。うり姫さんの好きな人を助けてあげなくちゃ」
うり姫さんはあたしを見下ろしながら、裾を掴んで目を細める。
「大声で言うべきではない」
そう言ったうり姫さんの仕草は、少し照れているようにも見えた。「ごめんなさいね!」と明るく答えると、あたしは屋根を駆け下りて梯子を下った。うり姫さんは屋根の上で、やがてあたしから視線を逸らすとまた消えた月を見上げていた。




