捌ノ伍夜 ひとりかもねむ
・其ノ壱。神が霊山より掬水した清水を口に含み、夜もすがら祈る。
・其ノ弐。儀式の間、清水以外の何も口に含んではならない。
・其ノ参。儀式の間、誰と会うことも許されず、家に入れてもならない。
・其ノ肆。これを十日継続する。
人が人ならざるものとの子を授ける為に避けては通れぬ『子産みの祈り』。この儀式が始まれば、十日間、ワシも寧丸も彼女と会えなくなってしまう。しかし、お菊はそうまでして子供が欲しい理由があるのだろうと、ワシはその理由を問うてみた。
「何故欲しがるんじゃ?」
「私、人と怪奇は仲良くできるってまだ信じてるから。この思いを継いで、争いの絶えない世の中を変えるために、立ち向かってくれる子が欲しいの」
「共存の願いか」
お菊が怪奇と仲良くできるのは憑かれ体質のお陰であって、並大抵の人間では難しいことなど分かっている。が、お菊の真剣な願いは、ワシの反対する心を打ち消した。
「儀式の間は、子のことしか考えてはならんぞ」
家具を全て退け、何も無くなった部屋に十日分の清水が浸かった壺と儀式用の小さな祠を準備した。部屋は縁側のある風通しのよい場所を選んだ。この日は花曇りであった。
戸口で「頑張ってくるね」とお菊は変わらぬ笑顔で言う。手を振りつつも、向かい合って中々離れられないでいる二人の時間は長く、手を振り終わってもしばらくそうしていた。別れ際。募る依依恋恋の思いに彼女の艶やかな椿色の髪を掬う。お互い恥ずかしがって口づけもしたことがなかったのに、初めてその髪が唇に触れた。
「おぬしを眷恋している」
「私もだよ」
手の中の髪は滑り落ち、やがて彼女の胸元に落ちた。お菊の眉を下げて微笑む顔に、おそらくワシもこんな顔をしてしまっているだろうと、けれどどうしようもなく、ワシらは遂に後ろを振り返って進んだ。
——お菊を待つ十日は長く、あれほど瞬時に過ぎ去っていた朝でさえ、お菊の味噌汁がない朝は一分を待つのもやっとであった。
「お菊、無事かな。まさか水飲むのを忘れて干からびてんじゃ……?はたまた、貧血起こして倒れてたり……」
「おぬしが心労で倒れる方が早そうじゃのう」
「だってえ」
十日間、寧丸は近くの空き家を借りて過ごすことにしたらしい。様子を見に伺ってみれば、やはりこの調子でいた。三日目にして彼女は寝付けないほどろりめいて、一時は塀に耳を押し当てて四六時中お菊の家を張り込もうと奇行に乗りでたこともあった。
「お菊なら無事じゃ。きっと祈りも成功する」
「信じてない訳じゃないよ。ただ、こんな長いこと一緒にいられないのは初めてでさ」
部屋を右往左往していた寧丸は、やがてちゃぶ台に近づくと、湯呑みの淵を掴んでひと口啜る。したら落ち着いたのか、座布団に腰掛ければワシと向かいあわせに座った。
「子供の名前は決めてあんの?」
「産まれてから決めようと思っとる。といっても、決定権はお菊にあるがのう」
「いーんじゃない?万は変な名前付けそうだし」
淵を弄っていた寧丸の指先が離れ、畳に両手をつくと今度は天井を見上げていた。お菊の顔を思い浮かべているのだろう。その顔色は優しく微笑んでいる。
「終わったら祝い品でもあげよっかな」
「贈り物を選ぶ時間は、たんとあるからのう」
——なあ、お菊よ。おぬしが夜もすがら祈りを捧げる間、ワシらはあはれあな憂と夜もすがら泥んでおったぞ。早くそなたの顔が見たかった。儀式後は疲れているだろうから、温かい粥と布団を用意し労わってやりたかった。
十日目。ワシは花選びを直前まで迷って、待ちきれなくなった寧丸が先にお菊の元へ走った。知己に置いてけぼりを食らったワシは、悩み抜いて買った花束を急いで抱え、子供のごとく駆け足で家へ向かった。その頃にはもう寧丸の後ろ姿は目撃せず、一足先にお菊へ逢ったらしかった。ワシが辿り着く頃には、寧丸は丁度玄関から出てきた頃だった。どうだったかと笑顔で聞こうとした。彼女の足取りは重たく力をなくして、やがて身体は塀にもたれて支えられた。俯いた顔はひどく青ざめ、見開かれた瞳は乾き、血色の悪くなった唇から震えた息が漏れる。その異様さにおぞましい予感が頭をよぎり、気が付けば彼女の様態も放って家の中へ駆け込んでいた。靴を脱ぐのも忘れ、無我夢中にお菊の姿を探していたかと思う。開けっ放しの部屋からは血の臭いが溢れ、部屋へ駆け込めば臭いは一層濃くなった。倒れる妻の周りを夥しい彼岸花が囲い、木の床にひとつまた二つと広がっていた。
「お菊!!」
彼岸花を踏んで、中央に眠る妻の姿を抱き抱えた。胸から腹を斜めに大きく斬られたお菊の肌は、冷たく灰色に変わり果ててしまった。何度呼びかけても、閉じた長いまつ毛が動くことはない。
——なぜお菊が死なねばならなかったのか。
後から知ったことであったが、子産みの祈りの最中にお菊の行動を怪しんだ人物がいたらしく、お菊を怪奇だと疑った人間が殺めたらしい。お菊は共存を願った末路、不運にも争いに巻き込まれてしまったということか。十日目の儀式が終わった直後のことであったらしい。お菊を殺めた人間は行方をくらませた。
ワシは人間を追って復讐を遂げようとも、呪ってやろうともしなかった。ただ、ひたすらにお菊と逢いたいと願うばかりの日々だった。十日、心長く彼女を待ち続け、逢えると信じていた。まさか二度と離れ離れになろうとは。
これがもし病死ならば、諦めがついただろうか。覚悟を持って浄土へ送ってやれただろうか。待ちぼうけた空蝉の心はお菊との突然な別れを一層受け入れ難くし、終いには、執念い心模様がお菊との再会を強く求めた。ワシは一人、黄泉の国へ赴いた——。
☽
お菊の家は、元からあまり人が立ち寄らなかった。生前に怪奇とばかり仲良かった親友は、しょっちゅう怪奇を家に招くせいで、ここ一帯の怪奇の目撃談が絶えず、人に避けられていたからだ。そしてお菊が居なくなってからは、怪奇の噂は日に日に増した。ウチはあの家に居る理由がなくなり、今は別のところで暮らしている。それを知った怪奇があの家を守ろうと、代わりに見張ってくれているらしい。そんなことしなくたって、もういいのに。お菊はいないんだから……。
そうはいっても、彼等もまたお菊の友達で、彼女が居なくなって寂しい思いをしているに違いなかった。たまには顔を出しに行っても良いだろうと、ウチは久方振りにお菊と暮らしていた一軒家へ赴いた。噂は色々あるけれど、そのうちの一つに、庭で彷徨く怪奇がいるというものがあった。雑草抜きでもしてくれているのだろうかと、ウチはまず庭の方へまわった。……そこに居たのは万だった。
「万。何してんの」
振り向いた万の表情は穏やかで、ウチに向かって微笑む顔もいつも通りだった。なのに、彼はもうウチの知っている万ではなくなっていた。
「なんじゃ。お菊の墓参りをしておったのじゃよ」
「んなこと訊いてんじゃないのっ」
怪奇の為に持ってきた包袋を投げ捨て、万に駆け寄った。相変わらず穏やかなそいつの胸ぐらを掴んで、ウチは睨みつける。
「あんた、まさか、お菊に逢いに行ったの?そんなことしたってお菊には逢えないんだよ!?」
「——うむ。黄泉の国へ行ってきた」
「行ってきたって……んな簡単に言えることじゃないっしょ!」
万を見つけた時、いの一番に感じ取った妖力は、胸ぐらを掴む手を伝って確かに感じ取れた。こんな莫大な妖力など万には無かったはずなのに。そんなエラい事になっても、万はまだ笑っている。
「すまんのう。怪奇になってしもうた」
万は黄泉の国へお菊を探しに行った。けれど、探しているうちに踏み込みすぎたのだろう。万は怪奇に変わり果てて帰ってきた。
「どうしてもお菊に逢いたかったのじゃ」




