捌ノ肆夜 ながながし夜を
ここには誰もいないから、二人きりで花火が見れるだろう。夫はそういって、花火のよく見える崖の上を選んだ。真正面に見える打ち上げ花火の大輪に、夫ははしゃいで指を指す。ぴんと伸びた指先は華の白光りする中央を向いた。
「ほれ見よ。あれが菊花火じゃ」
夫の笑顔が花火の光に照らされて、もっと輝いてうつる。そんな姿が可笑しくて、私は声を出して笑った。
「万ってば、はしゃぎすぎ!」
花火を見ていた彼の顔が私を向いて、お酒も飲んでいないのに、その頬は染まっていた。あんなに活き活きと伸ばしていた指先も恥ずかしそうに折れ曲がっている。
「変かのう?」
「ええ。変なの!」
☽
春。成の誕生日まで一ヶ月を切ったある日。ワシらは入佳の誘いを受けて花を見に出かけた。成の髪とまるで瓜二つな夜桜に、さて、どの花が成といちばん似ているだろうかと眺めていた。桜吹雪と共に、成の髪が軽く乱れ、丁度輪っかに結んだその穴を通り抜けていく花弁があった。それが面白く、ワシも成の輪っかに指を掛けた。
「何をする」
「丁度良いところにあってのう」
ワシに刀を向けていた一年前なら、危うく斬り殺されていただろうか。成も随分心を開いてくれた。
……遠くで、花弁を追ったゆきんこが転ぶ。泣きべそをかいた彼女へ、入佳は咄嗟に駆けつけ、手に包んだ花弁を開いてみせた。入佳の持っていたのは、偶々、萼筒ごと抜け落ちた一輪であった。
「少し大きいのを拾ったのよ。ゆきんこちゃんにあげるわ」
「いいの?」
一方で、うり姫と寧丸は二人並び、桜の下に座って閑話を愉しんでいる。そこへ花弁が寧丸の湯呑みへ降ったらしい。うり姫は肩をくっつけ、共に覗き込む。しかし、花の話題へは移らなかった。
「……で、どう思うかな」
「それもまた一興」
悩み相談をしている。ならば、ひつこく聞き耳立てるのは失礼だろうと、そのままワシは空を見上げた。やはり、どの桜も成によく似ている。
気がつけばかなりの時間が経った。みなも満足したところで成が立ち上がり、「そろそろ帰るか」と声かける。
……可惜夜。また一度、この時間を繰り返してはくれぬだろうか。
☽
入佳とゆきんこの口ずさむ時花歌をまたひとつの風景にして、道中は湖の真ん中を横断した。広く、大きく、浅い水面の遠くには一本の鳥居と、巨大な金魚の模型が水面から顔を突き出し、妖しく輝いている。黒く寡黙な水面も、その灯りを反射して橙色をまだらに揺らす。ワシらがどんなに進んでも、鳥居は未だ遠い。ワシは妄想し、入佳がそこへ駆け出して鳥居の周囲に満開の花火を咲かせたら、またひとつ成の思い出になるだろうかと考えた。が、それはまた、一時一時を惜しくさせてしまうだけだと気づき、夢は止んだ。
成の背中は目の前にあり、寧丸と他愛ない話を交わしている。その姿がとうに昔の記憶を思い出させる。それは愛おしく、又愛らしい。しかし、この瞬間を途切れさせるのが勿体ないと思えば、たちまち時間は過ぎていく。ならば、たったさいごのひと時、おぬしの瞳を覗かせてほしい——。
☽
「——成」
呟くように万が僕の名前を呼ぶ。首を向けると万は足を止めていたから、僕も足を止める。
「なんだ」
二人の流行り唄は止み、寧丸やうり姫も万を見た。帽子の影が薄くかかった瓶覗の瞳が、水面から反射する月明かりに照らされ、うっすら輝いている。その目は僕を見据え、一時も逃さず笑っていた。
「なんなんだ」
何も言わない万にもう一度訊ねる。しばらくの沈黙に、周りの空気は段々と冷やされていく予感がした。否、沈黙というより、万の笑顔がそうさせていた。
「何もないなら——」何もないなら行くぞ、と、踵を返そうとした頃に、ようやく万は口を開いた。
「ワシが仇じゃ」
それにはなんの脈略もなく、何を言いたいのかすら、僕には不明瞭だった。
「なんだ?」また同じ言葉で聞き返す。
「おぬしはずっと母の仇を探しておったじゃろう。それがワシだと言っておる。——日ノ出成」
一音ずつ単語が入ってくる度視界は埋もれるように、次第に万以外の景色が見えなくなって、それでも尚僕は万の言葉を理解した。その時の感情総ては何年経とうと、ひとつも言語化できはしないだろう。——ただ僕は刀を抜いた。
「待って、成さん!」
万を向く刀の先端に入佳が割り込む。万を庇うように入佳の左手が伸びる。
「どけ」
「そんな事しては駄目よ!万さんだって、何か理由があって打ち明けたはずよ。一緒に話し合いましょう?」
「はて。理由とは何か。ワシは成の母を葬った、成がずうっと探し求めていた母の死の真相じゃ。そのことを今告白した迄じゃが」
背中にいる万へ振り返ると、入佳は彼の名前を呼びながら小袖を捕まえる。しかし、万の顔は変わらない。
「だからって、殺しては駄目よ!今まであたしたち、仲良くしてきたでしょう?」
「入佳は親切じゃの。が、怪奇のまやかしを信じてはいかんのう。怪奇に人の心があると信じてはならぬぞ」
「ゆきんこちゃんや寧丸さんだって怪奇よっ」
入佳は泣き声で怒鳴り、やがて膝から崩れ落ちた。着物が水面で汚れるのも構わず、濡れた顔を両手で覆い、すすり泣く。
泣き崩れた入佳の代わりに、今度は寧丸の声が万を呼ぶ。
「万。あんたが成に裁かれたいだけなら撤回しな。そんなことで成は幸せにならない」
寧丸は万を睨む。けれど万は耳を貸すことなく、誰もいない何処かを見ていた。それが、遠くにうつる明るい鳥居だと気づくにも、時間は要さなかった。
今なら仇を斬れるだろう。向こうに抗う気もないだろう。けれど、この真っ直ぐ向け続けた刀を動かすこと。それが振るうことか、仕舞うことか、どちらを意味していても容易とはいえなかった。
この時間を終わらせたのは、ただ一人、耐えきれなくなったゆきんこの号哭だった。幼く高い少女の泣き声はしばらく辺りに響き渡って、しかしそれでも入佳は顔を上げられないでいた。僕は行き場をなくした刀を下ろして、それからは誰とも目を合わせぬよう、一人でその場を去った。
☽
成が去った後はひたすら静かだった。ゆきんこは泣き疲れ、時折ひゃっくりをしながら落ち込んでいる。入佳も泣き止んでいたけれど、立ち上がる気配はない。皆で楽しい時間を過ごしていたところに、何やってくれてんだと万を叱りたくなる一方、こんなことをふざけてやる奴ではないと知っていたウチも、万を問い詰める気など残っていなかった。
「万」
話しかけた。けれど、出てきた声は小さくて届かず、彼は踵を返し成と反対の方へ遠ざかって行った。一部始終を黙って見ていたうり姫は静かに後を着いていく。
……今は、ゆきんこを落ち着かせよう。
☽
猫は猫の子孫をのこすように、ワシが人の子を愛することなど、到底ありはしないと思い込んでいた。そんな余裕からか、ワシの油断した心模様は、一人の人間に惑溺してしまうようになった。——名をお菊。椿色の髪は長く揺れ、日中は彼女の無邪気な笑顔の如く煌めくというのに、夜は黒く妖艶に沈みゆく。侘しく儚げな、その移ろいにワシは惚れたのかと思ったが、否、つとに惚れていたが故、その魅力に目がいったと解釈するのが妥当だろう。
ワシの心恋は、やがてお菊にも暴かれて結ばれた。お菊が知己の育てた少女だと知ったのはその後のこと。それを気づいた知己にはよく揶揄われた。「アンタ、ウチのお菊に惚れたんだ?」と。
あたかも余裕の調子でいた知己だが、ワシらが恋人だと気づいた頃はひどく動揺しておった。あれは麗らかな日。お菊に誘われ初めて赴いた玄関前で、ひとつ深呼吸してから戸を叩けば、その知己が出たのだ。
お菊の恋人が来ると聞いて待っていた彼女は、ワシを見るなり驚いて襖を固く閉め、「そんなわけない!そんなわけない!」とひどく混乱しておった。しかし今となっては「ウチのお菊をよろしく」とまで言うようになった訳だが。
寧丸は世話焼きゆえ、お菊に近づいたのだろうが、大抵の怪奇は彼女の為人で寄ってきた。お菊は憑かれ体質であった。善き怪奇も悪しき怪奇もみな寄ってきてしまう珍しい為人。しかも彼女の場合、悪しき怪奇もみな彼女を慕って朋友になるのだから、お菊の周りは人の代わりに怪奇ばかりであった。
「私と他の怪奇が一緒にいる時、ほんとは少し嫉妬してるでしょ」
椿の花を活花に、花を弄りながら彼女は悪戯に揶揄う。お菊は多趣味な人でもあった。
「そんなことを思えば、おぬしを困らせてしまうじゃろう」
「なーんだ。私のことで拗ねてる万も可愛いと思ったんだけどなあ」
椿を飾り終えたお菊は、「できた」と小さく独りごちて鉢をワシの前へ移動させた。
「どう?上手くいったでしょ」
見せられた活花の大胆な形と、自信満々なお菊の表情が瞳に映った。そのふたつの光景が面白可笑しく思えてくれば、耐えきれず吹き出してしまった。「あ。ひどーい」と頬を膨らませるお菊の顔があった。
「すまぬな。おぬしの作品だと思うと、これほど愛おしく見えるのかと」
凛と咲く柔らかな椿に指先を触れ、薄くて赤い花弁を撫でる。
「この椿がおぬしに一番よく似ておる」
「椿に違いなんてあるの?」
「おぬしと出逢う前はワシも思っとった。しかし、お菊と同じ色じゃと知ってからは、椿を見る度おぬしを思い出すようになった。椿の咲く季節が恋しくなり、咲けば一番美しく咲き誇る花に、お菊の面影を重ねていた」
椿から目を離し、お菊の眼を見た。愛した女性の赤色が同じくワシの瞳を覗いている。
「結婚しよう。お菊。毎日おぬしの味噌汁を飲ませてはくれないか」
往昔の記憶。諸恋の末に妻となったお菊はあの告白をいたく気に入って、毎朝味噌汁を飲ませてくれた。毎朝といっても共に暮らしている訳ではないゆえ、暇さえあればワシから逢いに行くのが日課であった。ならば尚更とお菊は欠かさず味噌汁を作った。流石に飽いてしまうと笑いあったが、飽くことはついぞなかった。
この日もワシは、土砂降りというのに味噌汁の為ならばと、濡れながら逢いに行った。番傘を持っていたのに、袖は雨水に浸かって重たくなっておった。その日の帰り、お菊は雷鳴が響くのを聞くなり「送っていこうか」と気遣ってくれた。「帰りはおぬしが一人になってしまうじゃろう」とワシは断った。
「外は危険じゃ。戦が終わるまで家で大人しくしていた方が良い」
「まだみんな戦ってるの?」
お菊の侘しい顔色にワシは頷く他なかった。怪奇は人を脅かし、怯えた人々はやがて刀を抜いた。人と怪奇が団欒している所など、この家くらいだろう。儚き露の世で、なぜ争い合うのかというのは、お菊の言った言葉だ。
お菊はその場でしばし考え、やがて決意を固めると、とうに乾いた濃紺の羽織を引いては打ち明けた。
「ねえ、万。返事はまた今度でいいの。だから、今度までに万の答えを聞かせて欲しいの」
「聞こう」ワシは微笑んだ。お菊の真剣な瞳は新鮮で、場違いながら惚れ直してしまった。お菊は言った——。
「子供が欲しいの」




