捌ノ弐夜 山鳥の尾の
宝守神社の社務所、その奥部屋に布団が並んで二つ。まだ双方の布団の膨らみに、起き上がる気配はない。
「ゆきんこ、そろそろ起きる……?」寧丸の声が布団の中でくぐもって聞こえ、隣で眠るゆきんこは更に布団へ潜っては「まだ」と同じように呟く。
「ウチも……」寧丸も布団を深々と被った。
時間が過ぎて、どこかの寺から時鐘が鳴る。それでも二人は起きる気配がない。今度はその布団の膨らみが動くこともなかった。
更に時間は経ち、ようやく二人が飛び上がった。
「寝坊した!」と寧丸の叫ぶ声の後、ゆきんこは立ち上がり押し入れの襖を音高く開けた。
「寧丸、お着替え……!」ゆきんこが寧丸の服を渡し、ゆきんこも着替え始める。
「あんがと!」
慣れた手つきで着替えを済ませた寧丸は、慌ただしく台所へ直行する。その間、ゆきんこは寧丸の分もお出かけの準備を整えていた。遠くの台所から寧丸の文句が聞こえてきた。
「ああもう、化粧も終わってない!」
☽
階段を降りた先の縁側に立って、万は僕たちを手招く。僕らの傍には木の看板に手書きで乗り場と書かれ、下には川をまたぐ為の四人用を想定された乗り物が二つ、やけに厳つい男に囲まれて僕らを待っているのだった。
「御輿か何かか」
そう思った原因は舟の形にあった。担ぎ棒が長く突き出た四角の畳に、朱塗りの勾欄が囲い、隅には金箔の擬宝珠と呼ばれる装飾がある。その風貌が正しく御輿に見えた。
「輦台っていうのよ」
入佳はレンダイという名の乗り物について詳しく解説してくれ、一方、その横では寧丸が非常に疲れた様子で階段前の柵に手をついている。先程、待ち合わせ時間丁度にゆきんこと二人して走ってきたから、恐らく寝坊でもしたのだろう。ゆきんこはというと、初めて見る乗り物に気持ちが高鳴って階段を駆け下りていく。疲れながら、しかし寧丸は「歩きなー」と叱っている。
「輦台は御輿?」
僕の背後にはうり姫がいて、顎に手を添え渋っているようだった。
「御輿が嫌いなのか?」
「持て囃されるのは得意でない」
「あれは観光客を楽しませるためのものよ。だから安心して、一緒に行きましょう?」
入佳は僕とうり姫の手を取り、階段の方へ引いた。その後を寧丸もついていく。万が待つ下へたどり着くと、四人乗りの輦台をみなで三組に分かれ、舟に腰掛けた。僕は万とうり姫と一緒に。輦台は手の力が加わった感覚の後、軽々持ち上げられ川を進んでいく。向かいでは入佳達が川を眺めて楽しんでいる。僕もつられて川を覗いて見れば、川は内側から煌めき、半透明の絹によく似た川の流れが輦台に向かって進んでは底へ潜るのだった。それを眺めていると、頭に万の手が乗った。
「……邪魔だ」
しかし、僕が抵抗しないのを良いことに、手は一向に退かされない。「すまんのう」と万が死角から笑いつつ、やはり動かさないので、万が手を退けてくれるのを待って川を見続けた。
☽
川から離れてやや経ち、今度は緩い山道を皆して歩いていた。しかし万は思いついたように列から逸れ、低い崖から突き出た竹筒の、そこから溢れる湧水へ近寄った。
「喉が乾いたのか?」
「炭酸水じゃ。飲んでみるかの?」
炭酸ってなんだ、と訊こうとしたところ、万の横に並んだうり姫が湧水に指先を当てた。しばらくそうしていた為、みなも気になってぞろぞろと万のもとへ集まっていく。僕も何となく合わせた。
「人の子は脆い。けれど、これなら飲めるはず」
湧水から手を離したうり姫は、途端しきりに僕を見つめてくる。
「成。飲む?」
誘われ、竹筒から湧き出る炭酸水とやらを掬水すると、水は両手が鮮明に透き通るほど澄んで、冷んやりした液体の中に、細かい気泡が時折浮かぶのが見えた。けれど気にせず、ひと口だけ飲んでみる……
「うっ、」
手に残った冷水は湧水の溜まる窪みの、そこを囲う石の上へ反射的に落ちた。これは本当に飲めるものなのか。疑う一方、万は横から徳利を取り出して湧水を入れた。
「何をしている」
「中にめんつゆが入っておる。割るとこれまた美味いんじゃよ」
嬉々として箸を取り出し、徳利の中を一周半ほど混ぜた頃、万は寧丸に徳利を預け、今度は赤の四角い椀の蓋を開けた。中には細い麺があった。寧丸から徳利を貰い、椀に注いだめんつゆを和え、箸を使ってひと口食べると「うまい!」と声を聞かせた。一番につられたのは入佳だった。
「あたしもひと口いいかしら?」
「みな分あるぞ」
万は自ら持ってきた袋を見せ、その中を開くと丁度人数分の赤い椀が蓋されていた。恐らく、ここの湧水を知っていて持ってきたのだろう。ゆきんこやうり姫も嬉しそうに受け取る中、万は最後のひとつになった椀を僕にも差し出してきた。
「成も食べてみよ」
「いや、僕はいい」
☽
ようやく会場につけば、中は宴会場のようになっており、均等に並べられた長机には既に観客がちらほらいて、それぞれ好きなものを頼んで歌舞伎を待っていた。既に予約を済ませていた入佳が僕らを導き、丁度、舞台がよく見える真ん中の席に案内される。紫の座布団に並んで座ると、万が早速酒をたんまり頼んでいた。その次に入佳が抹茶を頼み、つられて、ゆきんこは汁粉を注文していた。
「二人は鮎の塩焼きかのう?」万が僕とうり姫をからかう。
「別に、塩焼き以外も……」
「成。ひと皿で四本だから、半分こしない?」
……結局、鮎の塩焼きを食べることになった。
……あれから一時間余りが経過した頃。万の手前には六本の徳利が空になって並べられており、とうに面倒臭い笑顔で火照っている。三つ目の演目が終わった時点でうり姫は十本ほどの塩焼きを食べ終えており、僕はいつの間にか、ゆきんこの残した甘味を皆で分けて食べていた。……それにしても、やたらな殺生を避ける神が、大食いするのは良いのだろうか。
「まだ食べるのか?」うり姫に訊ねる。
「余は一日の摂取量を一度に取ったまで。でも、もしこれが多いというなら、その分断食するけど」
一応、うり姫なりの筋道があるらしい。
「そこまでは言ってない」
……そうして新しい演目が始まる。舞台袖から出てきたのは——寧丸。
けれど、自分の真横を向くと、先程と同じ位置に寧丸はいた。つまり僕の目には寧丸が二人映っている。
「どうなってる?」
客席にいる寧丸は、どこか居心地悪そうに苦笑いを浮かべる。その奥でゆきんこは寧丸の舞に魅入っていた。しかし、舞台の寧丸が偽物だと気づけたのは額に白く伸びる鬼の角があったからだ。角には洒落た花の模様が風の表現とともに描かれていた。
「ウチ、ちょっと離れる」
寧丸は慌てた様子で立ち上がり、僕らにそう告げたあと皿の甘味もそのままに、急ぎ足で会場の出口へと向かう。それを目で追っていた矢先、何かが刹那、風を切って寧丸の方へ猛進した。寧丸が気配を察知して振り返る頃には遅く、何かは黒く刺々しい棍棒を振り上げ——寧丸が立っているより手前の畳に叩きつけた。
「お久。ねーまる」
奇襲を仕掛けたのは舞台にいた偽の寧丸だった。偽物が会場を横切ったあの瞬間、会場は突風が吹き荒れて食器も装飾も滅茶苦茶に飛ばされ、観客はいつの間にやら居なくなっていた。そんな中、万はふらつきつつ立ち上がる。
「やはり酒呑童子か。久方ぶりじゃのう」
万の声に気がついた偽の寧丸も万の方を向いて手を振り返した。知り合いだろうか。
「万もお久!君のお弟子ちゃんにあげた招待状、興味持ってくれたみたいでチョー嬉しいよ。あんがとね」
招待状……歌舞伎に誘ったのは入佳だから、恐らく入佳へ文か何かでも送ったのだろう。その傍ら、寧丸は彼女の背中に向かって睨みつけた。
「で、なんで変装してんのさ」
「だって、ねーまるって人の間で人気者じゃん?こっちの方が映えるかなあって」
ばえるってなんだ?
「じゃあ、その野蛮な挨拶は何?」
「映えるかなあって!」
偽の寧丸が笑顔で答える一方、寧丸は呆れ顔に手を当ててため息をつく。
そのもう一方で、僕は偽物に問いかける。
「何者だ?」その問いに最も早く反応したのは万だ。
「彼女は三大妖怪の一人、酒呑童子じゃ。鬼の頭領じゃが、寧丸の友人でもある」
「つまり、コイツは母なのか?」
「ウチの友人、成の母親だけだと思われてる?」
寧丸の友達といえば真っ先に浮かぶのが母だった。その印象が強かったためだが、言われてみれば万も寧丸の友人だ。他に交友関係があっても不思議ではない。万曰く、寧丸の交友関係は全て母繋がりらしいけど。
「何?もしかして、この子がねーまるの言ってた娘ちゃん?」
寧丸そっくりの瞳が僕を凝視する。物珍しそうな目つきが僕の顔を覗き込んだ。
「可愛いじゃん。お名前は?おいくつ?和歌は書けるの?どんな味がするのかなあ?」
寧丸と万の方から「食うな」と声がかかる。味方なのかが疑わしくなってきた。
「……鬼の頭領といったな」
「うん。あーしの角、デカくて格好良いっしょ?鬼には皆着いてるもんなんだよ〜。寧丸は自分で折っちゃったらしいけど」
「折ったのか?」
「だって、角があると子供が怖がるじゃん?だから素手でこう……」
寧丸は開いた片手のひらを固く握り、物を潰す動作をした。寧丸にも角があったとするなら、偽物たらしめていると思っていた酒呑童子の角も、実は昔の寧丸とそっくりなのかもしれない。
「ねーまるは変わってるっしょ?」酒呑童子が僕の方を向く。「食べ物を可哀想だなんてさ」
味方にしては食文化が違いすぎる。
少し気になって入佳達の方を見ると、ゆきんこは酒呑童子の一言に怯え、入佳の背中へ完全に身を隠してしまった。それを寧丸も気づく。
「ゆきんこが怖がってるから、やめてくんない?」
「安心してよ。あーしだっていつも人間を食べてる訳じゃないし。鶏だって食べるよ?」
生きたままの鶏を想像してしまったのは、思い過ごしだろうか。
「でも、ちょっと気が変わっちゃったかも?
……ゆきんこちゃんだっけ」
刹那——空を切った寧丸の拳を、金棒が手前で受け止めた。周りの空気が張り詰めたのが伝わった。
「それ、ウチへの宣戦布告って事でいい?」
「そうこなくっちゃ。そのために呼んだんだから」




