肆ノ伍夜 勇気
精巧に折られた和紙の尾ビレを赤子の様なもろ手が掴んだのを見た。入佳を導く金魚は既に先陣を切っており、赤月の明かりに重なって金鱗を模した鱗文様が細かく瞬いた。
余は、その手まりのように小ぶりな身を軽々持ち上げ、侘しさに潤んだ瞳が月光で目立つ様を見た。
このように、人も怪奇も愛に縋り、神さえも生ける者に慈しみの涙を与えるというのに、日輪を名に持つ未成熟の少女ときたら、最近にきてようやくその概念を関心するに至ったのだという。それを思えば、余もまだ全知全能とは程遠い。つまりは全知全能など、常世にさえ存在できないのだ。
「着いていく?」
聞かずとも、この子は一寸にも満たない尾ビレの先端に掴まって、魚の泳ぎに高所から振り回されようとも離さないつもりでいよう。どう返事するかの予知など、一々頭を巡らせるまでもない。
「いいの?」
「そなたは怪奇。みなが思うほど弱くはない」
余の正面に座したその子は、背後を顧みるつもりもなく否定を独りごちる。己を弱者と評す者は、大概才能を規定の大きさがあると断定し、己の才能を低く区切る人の自己嫌悪だ。強弱は、人と人とを見比べる者が作った才能と呼ばれる造語などで測れるものではないのに。
「強さとは、俊敏さや強大な妖力や守れる優しい心だけではない。勇気もまた強さ」
「そなたは金魚に手を触れ、今、余と共にいる。それだけで十分」
☽
「おお、入佳。呼び出してすまんのう」
金魚さんから降りると万さんの姿はすぐにあたしの目に映りこんだ。
「成さんは?」
聞いた通り、成さんの姿だけ見当たらなかった。「それは……」と言葉を詰まらせながら万さんが指を指したのは、虎のような猿のような不思議な見た目をした動物だった。その動物の蛇のようなしっぽに、見知った桜色の髪の少女が巻き付けられている。
「なんてこと!」
「うり姫の浄化にも応えてくれず、迷っておったらああなってしもうた」
「余は、嫌がる者に強制はできない」
あたしの花火でなんとかできるかもしれないけれど、もし花火が成さんに当たってしまったら、成さんが大火傷してしまう。
「なんとか三人で怪奇さんを誘導して、怪奇さんが咥えている小刀を返して貰えないかしら」
怪奇が噛んでいる成さんの小刀を指さした。白い刃はこちらを向いていて、運良く引き抜けても手に大怪我を負ってしまうし、無闇に近づけばあの大きなお口で食べられてしまうかもしれない。
「ううむ……どう誘導するか」
万さんが頭を悩ませているのを見て、あたしも一緒に考えてみる。そんな時、あたしたちの間を横切って怪奇さんに近づく、小さな影が視界を通った。
「ゆきんこちゃん!どうしてここに……」
ゆきんこちゃんは何も答えず、懐から取り出した小槌をぎゅっと握り直した。
「ダメよ!危ないから」
聞こえているはずなのに、ゆきんこちゃんは一歩、また一歩と歩んでいく。
「余が連れてきた」
うり姫さんの突然の告白に思わず声を上げた。ゆきんこちゃんは恐る恐るでも、決して足を止めない。不安でいっぱいだったけれど、うり姫さんが連れてきたとはどういう事だろう。ゆきんこちゃんが着いてきたいって行ったのかな。そう思うと、何故だかいつの間にか、自分の心配を押し切って叫んでいた。
「ゆきんこちゃん!頑張って!」
——足が止まった。またびっくりさせちゃったかな、と思った。けれど、次の瞬間ゆきんこちゃんは地面を蹴って走り出した。丸くて柔らかそうな小槌を一生懸命構えて、怪奇さんのおでこを一発叩く。
……怪奇さんがヒョー、ヒョーと不気味な声を鳴らした。
「———っ!!」
ゆきんこちゃんの声にならない叫びのあと、背中を向けて逃げ出したところを怪奇さんが追いかけ始める。怪奇さんは砂煙をあげながらみるみるゆきんこちゃんとの距離を縮めていく。
「ゆきんこちゃんを食べないで!」
考えるより先に、あたしはゆきんこちゃんと怪奇さんとの間に立ち塞がっていた。目の前に花火を打ち上げると、怪奇さんは驚いて刀を落とす。その刀は見慣れた動きで宙を舞って、怪奇さんのしっぽを斬り落とした。
解放された成さんが咄嗟に立ち上がり、刀を持って怪奇さんを一突きする。怪奇さんは、塵になった。
「成さん!無事でよかったわ」
「助かった。……それと、そこの——」
成さんはあたしの後ろで見上げている子と目を合わせた。「ゆきんこちゃんよ」と紹介すると、「ゆきんこも、助かった」といつもの顔で告げた。けれど、その顔は一瞬で険しくなって万さんの元に歩いて行ったと思うと——万さんの胸ぐらを掴んで引き寄せていた。
「誰のせいでああなったと思ってる」
「い、今までは上手くいっとったじゃろ!だから今回もあの作戦で行けば勝てるかと」
「もう僕を投げるのは禁止だ!」
……一体、どんな作戦だったのかな。
☽
さっき戦った怪奇は鵺という怪奇だと万から教わった。闇夜に不気味な声で鳴く怪奇とされ、掴みどころがない人間をしばしば鵺のような人と表現することがあるらしい。「じゃあ万は鵺なのか」と聞けば違うと言われた。
入佳やうり姫、ゆきんこと別れてから万がやけに気味悪く笑っていることに、相変わらず鵺を思い浮かべつつ「なぜ笑っている」と聞いてみた。
「——成よ。新しい魔法少女を見つけたぞ」
その発言に、それが誰を指すのか、喋らせなくとも察しがついた。
「怪奇との共存は反対じゃなかったのか」
「座敷わらしは元人間の怪奇じゃ。成も半怪奇みたいなもんじゃし、許容範囲じゃろ」
「あんだけ怒っておいて、結局は気まぐれか?」
「あの時は気が動転しておったんじゃ。何か好きなもんはないかと、入佳に尋ねておいてくれるかのう」
「……羊羹が好きって言ってたぞ」
「羊羹か。入佳らしいの」




