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6話 迷惑な挨拶

———翌朝。6時半。


ソウルの3月の朝はやっぱり寒かった。

日本だとそろそろ薄手のパジャマでもいい所を、昨日は普通に上着を重ねて寝たらしい。ほぼ記憶にないが。

さて、今日から本格的に仕事だ。

誰もが喜ぶSONICオタクの聖地。STARZEntertainmentの本社に合法的に潜入するのだ。

昨日の雑念とは裏腹に、冷たいソウルの風がユナの気持ちを引き締めた。


顔を洗い、歯を磨き、化粧をしてから髪をまとめる。

スーツに袖を通してコートを羽織る。

パンで簡単に朝食を済ませ、大好きなジュニルの曲を聴きながら玄関のドアを開けた。


家からSTARZまでは電車で一駅だ。

韓国語が飛び交う韓国の電車の中は日本とはやはり空気が違っていた。旅行でちょくちょく来てはいたのだが、やはり海外に来たのだなという感覚が走る。

ジュニルのソロ曲がちょうど終わった頃に、電車はSTARZの最寄り駅へとたどり着いた。


電車のホームを出てから江南の街を少し歩くと、

一際異彩を放つ高層ビルがひとつ。近未来的なデザインに、STARZの文字がデカデカと掲げられている。

ユナは思わず田舎から東京に出てきた時みたいに、ビルの上を見上げてしまった。


「デカイな……」


思わず言葉が漏れてしまった。

ユナの周りを歩く人々はSTARZの職員だろうか。怪訝そうにユナを一瞥した後、颯爽と事務所のエントランスに吸い込まれていく。


入口脇には、STARZ所属アーティストのオタクであろう女性たちが、まるで観光スポットのように、きゃあきゃあと騒いでいる。その前をセキュリティがギロリと睨んで、足早に去っていくのが見えた。


ほんの数日前まで、自分もあちら側の人間だった。


ユナは深く深呼吸をして、よし。とSTARZのエントランスへと足を進めた。

なれない手つきで仮の社員証をかざすと、ゲートの扉が開いた。足を踏み入れた瞬間に、一気に景色が変わった。

ガラス張りのロビーは一面真っ白な大理石で、中央には巨大なデジタルサイネージ。

そこでは今まさに、ジュニルが所属するSONICの最新MVが、まるで美術館の展示品のように優雅に流れていた。

ロビーの空調は完璧に制御され、ほんのりと香る高級なアロマの匂いが、このが単なるオフィスではないことを際立たせていた。

思わず感嘆の声が漏れ出そうになったが、必死に引っ込めた。


「あ!おはようございます。佐藤さん。早いですね。」

 昨日のようににこやかな笑顔で近づいてきたのはミンジュだった。


「あ、お疲れ様です。ミンジュさん。」


「ふふ、緊張してますね。では、グローバル事業部の方にご案内させていただきますね。こちらに。」

 

ミンジュに案内され、重厚なセキュリティゲートを二つ越え、エレベーターは6階へと進んだ。

全てが見慣れなさすぎる光景に、ユナは思わずキョロキョロと目を動かしてしまった。

その様子を微笑ましげにミンジュは見つめていた。


「佐藤さん、本日のスケジュールはご確認いただけましたか?」


「あ、はい。メールにて拝見済です。ありがとうございます。」


「良かったです。あ、つきましたよ。」


エレベーターを降りると、ミンジュに促されグローバル事業部のフロアに足を踏み入れた。

飛び交う韓国語、英語、そして日本語。

何台ものモニターに映し出されるSNSの反応。

壁にはアーティストのスケジュール管理表がまるで複雑なパズルかのように貼り付けられていた。


本当にSTARZの内部に来たんだ……。

そんな現実感が一気にユナの心臓を握りつぶしてきた。


「ユナさん?」


ミンジュの一声で思わず我に返った。


「あ、すみません!」


ミンジュはクスッと笑うと、ユナのデスクを案内した。


「こちらです。座ってください。」

 

ユナは言われるがままにデスクについた。

芸能事務所のデスクは思ったよりも普通だ。デスクトップパソコンに、散らばった原稿。微かに香るコーヒーの匂い。東京で働いていた時と何ら変わらない。

その光景に少し安堵できた自分がいた。

これまでの状況があまりにも非現実的すぎたから。


「ユナさんが主に作業していただくデスクになります。基本的にご自由にお使いいただいて構いませんのでね。9時まで少し時間があるので、ここで少し待ってて貰ってもいいですか?」


そういうとミンジュは何が用事があるのか、

ユナのそばを離れてフロアから出ていってしまった。


落ち着かない。落ち着くわけがない。始業まであと20分。

心臓の音が、静かなオフィスに響くのではないかと錯覚するほどだ。デスクの端で、小刻みに揺れる膝を必死に押さえつける。


だめだ。ジュニルがこの事務所のどこかにいるかもしれない。その事実だけで、思考がショートしそうになる。


その時、スマホが通知音がポンッと鳴った。


『おい無視すんなよ。出勤したの?』


リョウからのメッセージだった。

画面に浮かんだRYOの3文字に、ユナは思わず息を呑む。


『したけど』


返信を待ち構えていたかのように即座に反応した。


『へえ、今エレベーターだから寄る。』

 

——は?寄るな。


お前の所属は上階のアーティストフロアだろう。何を言っている。

慌てて拒絶のメッセージを送ろうとした、その時だった。

ゾロゾロとグローバル事業部の職員達が出勤してくる中、見覚えのありすぎる出で立ちのサングラスをかけた男。

列に紛れたように見せかけて、フロアのドアからひょこっと顔をだした。

 

リョウだ。


出勤途中の私服に近いラフな格好だが、隠しきれないオーラが6階の事務フロアで異彩を放っている。リョウはサングラスを鼻先にずらして目元を覗かせると、ユナの顔を捉えてニヤリと笑った。

 

 「やっほー」

 

軽薄な口調でヒラヒラと手を振って、当然のようにユナのデスクまで歩いてきた。

周りの社員は視線を交わして、リョウがこのフロアに来ること自体、異常な状態のようにチラチラとこちらを見ている。

ユナの胃がギリギリと痛む。視線が痛すぎる。

当の本人はそんな視線など気にもとめずに、ユナが手を伸ばせば届くほどの距離まで近づいた。

 

 「……ッなんで来るの。」

ユナは拳を握りしめ、リョウから視線を逸らし、声を落とした。

 

「え、何でって挨拶だけど?新人さんにさ。」

 

リョウは腰に手を当ててヘラヘラと軽薄な笑顔を浮かべながら、硬直しているユナを見下ろした。

新人さん、という言葉がやけに意味ありげに尾を引いた。


 「いいから、そういうの。」

ユナは目を合わせまいと、顔を背け、呆れたように小さく鼻から息を漏らした。

ユナの拳が更に握りしめられる。

 

「ふーん、つーか顔ガチガチなのめっちゃウケる。今日は何すんの?」

 リョウはそんなユナの必死な様子など、嘲笑うかのようにくっと喉の奥で笑いながら視線を逸らすユナの顔を覗いた。

 

「……オリエンテーションだけど。」

 

ユナはリョウの顔をみまいと視線を泳がせるが、

あまり意味が無い。強制的に視界に入ってくる。

 

「へえ、俺が教えてやろっか?色々と。」

 

リョウは飄々とした態度を崩さない。

余裕のあるムカつく笑顔で冗談めかしてそう言った。

 

「……はあ。早く上に行ってくれない?ほんと。」

 

ユナは深くため息をつき、額に手を当てた。

リョウはため息をつくユナの態度など気にもとめず、むしろ獲物を捉えるような目で、ニヤリと口角を上げた。

 

「そんな冷たいこと言うなって、かわいい俺のお姫様の顔、朝から見たかっただけじゃん?」

 

そう言って、リョウは緊張で強張るユナの髪を一筋、わざとらしく指先で遊んだ。

 

「寝癖着いてんだけど。ださ。」


その瞬間、

フロアのざわめきが余計に大きく聞こえた。


(え、なにあれ……付き合ってんの?)

(リョウが降りてくるなんて相当でしょ。彼女?)

(あのリョウが珍しいな)


周囲の反応など知ったことではないと言わんばかりに、

リョウはニヤリと口角を上げる。

 

 

「………いい加減にしろよ……あんた……」


限界を迎えたユナが、ワナワナと震える拳を振り上げようとしたその時。

リョウは怯むどころか、わざとらしく声を潜め、ユナの耳元で囁いた。


「いいじゃん。勘違いさせようぜ。」

 

ユナは、耳を掠めたリョウの低い声に、一瞬だけ思考が止まってしまった。


その瞬間。

————バンッ


勢いよく開いたフロアのドアの音ともに、

ユナにとっては、やけに聞き覚えのある男の声がフロアの凍りついた空気を切り裂いた。

 

「おっはよー!!あれ?リョウじゃん!なんでここにいんの!?」

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