5話 702号室
そうこうしているうちに車が地下の駐車場へと入って行くのがわかった。宿舎についたのだ。
宿舎はSTARZからの立地もよく、築浅の綺麗なマンションだった。
流石は大手芸能事務所。従業員用の宿舎においても設備が整っている。
運転席からドンフンが降りると、慣れた手つきで後部座席のドアを開けた。
「こちらが宿舎になります。702号室です。家具や家電は一式揃ってますので、ご安心くださいね。」
にこやかな笑顔でミンジュは紹介した。
「荷物は私が運びます。先にミンジュと部屋へ。」
ドンフンが運ぼうとする姿を見て、慌ててユナは止めに入った。
「いや、全然大丈夫ですよ。自分で運びますので。」
「いえ。私が運んだ方が効率が良いので。」
優しさとか気遣いではない。単にその方が効率が良いから。そう伝えるドンフンには冷たさがあったが、非常に信頼できた。
「あ……でも……」
有無を言わさずにドンフンはキャリーケースを下ろしている。
「いいから頼んどけって。ほら、部屋行こうぜ?」
そして、そんな姿を気にもとめずにヘラヘラとした笑顔を浮かべているリョウ。
なぜか当然のように鍵をもっている。
なんなんだこいつは。もう送ったんだから帰れよ。
「なんであんたも来るの。」
「なんでって、ダメなわけ?セキュリティチェックだよセキュリティチェック。この辺変な男も多いからさ。」
その辺の変質者よりも厄介で変な男はもう既に目の前にいるのだが、と思ったが言ったところで何も意味がないので口に出すのはやめておいた。
ミンジュはその光景を苦笑いで見つめることしかできていないようだった。
「リョウ。」
ドンフンの淡々とした冷徹な口調が空気を割いた。
「一応言っとくけど、ここ女性棟だから関係者でも個人的な男の立ち入りは原則禁止だし、セキュリティも万全だ。
お前もアイドルなら幼なじみだからって下手に接触しない方がいい。」
「はいはい、分かりましたよマネージャーさんよ。別にいいだろ。今日だけだって。つーかお前も男だろ。」
一瞬だけムッとした顔をしたが、
いつも通りヘラヘラとした様子でドンフンに話す。
「俺はお前と違って仕事に私情持ち込まないんだよ。妻もいるし。今回は荷物持ちってことで見なかったことにするけど、次はないからな。度が過ぎたら代表にも話が行くと思え。」
あくまで淡々と、事務的な口調で話す。
妻、と言ってチラリとミンジュの方向を見たので、
この2人はどうやら夫婦だったらしい。
そして”代表”という言葉が出た瞬間、ピタッとリョウの表情が固まった。
あのリョウと言えども代表にはさすがに逆らえないらしい。
STARZ Entertainment代表、カン・テソン。
記者会見やインタビュー映像で何度か見たことがある程度だが、いつも穏やかな笑みを浮かべているのが印象の人物だ。
もっとも、その笑顔の奥で何を考えているのかまでは分からない。
「代表は勘弁……」
あの飄々とした顔から一瞬だけ怯えた犬のような顔が見えた。
「言われたくないなら、それ相応の行動をしてくれ。ほら、鍵。返せ。」
「……チッ」
そう言ってドンフンはリョウから鍵を取ると、その鍵をミンジュに渡した。
ミンジュは慣れた手つきでオートロックを解除し、エレベーターの前に立った。
エントランスは従業員用の宿舎というには非常に高級感があった。
「あと今回の件もな。オフだからいいだろって散々ごねるから渋々許しただけで、次はないからな。本当に次はない。」
「うるせーよ。分かってんだよ。んなことは。何回も言うな。」
「ほら、荷物持ち。ちったあ役に立て。」
「はあ……」
渋々荷物を受け取るリョウ。
マネージャーの言うことを子供のように聞くリョウに、思わず笑みがこぼれそうになった。
車の中では何も言って来なかったのでリョウに逆らえないのかと思っていたが、しっかり刺すところは刺すらしい。よくできたマネージャーだ。
荷物を持ってエレベーターで7階につくと、
会社の宿舎としてはできすぎているほどの大理石の廊下が広がっていた。
「なにこれ……すご……ホテルみたい…」
「部屋はこちらになります。」
ミンジュの声に促され、702の部屋にたどり着く。
扉を開けると1LDK。白を基調としたミニマルでスタイリッシュな空間には、最新の家具や家電が整然と並んでいる。カフェよりも洗練されたその景色に、思わず呆然とした。
「え……これ、私ここに本当に住むんですよね?」
「そうですよ〜。最初はみんな驚かれます。こちらがカードキーになります。紛失すると30万ウォンの罰金がかかりますので、無くさないように大切にお持ちくださいね。」
にこやかな口調でミンジュに鍵を渡される。
そして、私の許可も待たず、リョウが真っ先に土足で室内を闊歩し始めた。
「……」
ドンフンは怪訝そうな顔をしたが、この人も私同様にこいつに何を言っても無駄だと察したのであろう。
止めはしなかった。ミンジュも同様に苦笑いをしている。
「へえー、STARZも随分いい寮用意すんじゃん。」
キョロキョロと室内を物色するリョウに、思わず眉をひそめる
「あの、勝手に触らないでもらえる。」
「いいじゃん。ケチ。」
「はあ…もう、荷解きするから、帰ってくれない。そろそろ。」
「嫌だけど。」
「リョウ。」
ドンフンのドスの効いた低い声がリョウの不服そうな態度をバッサリと切った。
今度は私が頼るより先に、ドンフンが玄関先で腕を組み、冷ややかな咳を一つ落とした。その重圧に、リョウは肩をすくめて踵を返す。ミンジュは困ったように苦笑いをしている。
「……チッ。連絡しろよ。あとで。」
リョウは渋々歩きだし、玄関先へと向かった。
「では、明日からよろしくお願いしますね!
オリエンテーションの詳細はメールの方に送らせていただきますので。
荷解き、ご無理されないように体を休めてくださいね。
何か必要なものや困ったことがあれば私に相談してください。」
ミンジュがにこやかに微笑んだ。
優しい……。リョウのムカつく態度などかき消すほどの神対応だ。
すると、玄関のドアに手をかけたドンフンが振り向きざまに呟いた。
「リョウの言葉をあまり真に受けないでください。基本的に受け流すように。リョウの動きはこちらでしっかりと制止させていただきますので。ご安心ください。」
釘を刺すようにユナの目を射抜いた。
面倒事は困るぞ、という目。
「はは。もちろん。わかってますよ。」
苦笑いでドンフンに答えると、ミンジュはにこにこと微笑み、玄関のドアが閉まった。
「はあ……」
ユナはまたもや大きくため息を着いた。
ソウルに17時についてから3時間しか経っていないのにこの疲労感。これが3ヶ月。
しかも明日からは本格的仕事が始まるというのに。
そして愛しの推し、ジュニルと事務所でばったり遭遇するかもしれないのに。
メイクを落とし、シャワーを浴びて荷解きをしながらミンジュから送られてきたオリエンテーションの詳細に目をやった。
集合は朝9時。
場所はSTARZ本社6階のグローバル事業本部。
会社説明、セキュリティ研修、施設案内、業務説明、チームメンバーとの顔合わせ。
思ったよりも普通に仕事だ。
まあ当たり前だ。
仕事に来たのであって、推し活に来たわけじゃない。
ユナはベッドに腰を下ろしながらメールをスクロールする。
持ち物。
社内ルール。
機密保持契約。
その中に一文だけ目を引く内容があった。
『アーティスト専用エリアへの立ち入りは原則禁止されています。』
そりゃそうだ。スタッフと言えども簡単に立ち入りができてたまるもんか。
社会人として冷静に判断する一方で、
やっぱ入れないのか、という謎の残念感がの残っているのは気付かないふりをした。
リョウから「おつかれ」と一言だけメッセージが来ていたが、疲労感が返す気にはさせてくれなかった。
ホテルのようにふかふかなベッドの上で、いつの間にかユナは眠っていた。




