3話 スモークガラスの向こう側
それから数日後、怒涛の渡韓準備を終え、
日本から韓国に旅立つその日が来た。
数日まともに寝ていない。
目の下にはコンシーラーで隠しきれないクマが残っている。
推しと会えるかもしれないワクワク。
そして死ぬほど厄介な幼なじみの存在。
シンプルな仕事への不安。そんな気持ちを全て無理やりキャリーケースに詰め込んだ。
「はあ……腹括るしかないだろ……」
あれから何故かリョウからの連絡がない。
何か企んでいるのか、単に忙しいだけなのか。
後者であることを願うばかりである。
航空券を片手に、ゲートへと入っていく。
行先は韓国・仁川空港。
成田空港から仁川空港までは約二時間ほど。
海外といえど遠くはない。
だがこの瞬間のユナにとっては、まるで太平洋を超えるほどの時間が経過していた。
気を紛らわす為に大好きなジュニルのソロ曲を聞こうとしたが、今この瞬間では逆効果であることに気がついた。
諦めてヒーリングミュージックを聴きながら目を瞑ることにした。
程なくして仁川空港にたどり着いた。
乗客たちが次々とキャリーケースを引きながら降りていく。
ユナもその流れに身を任せ、機内を後にした。
ボーディングブリッジを抜けた瞬間、ひやりとした空気が頬を撫でる。
見上げれば案内表示は韓国語、英語、中国語。
聞こえてくる会話もほとんどが韓国語だった。
「여기요.」
「수하물 찾으러 가야 돼。」
耳慣れたはずの言葉なのに、日本で聞くそれとはどこせか違う。
イントネーションも、話す速度も、人の流れも。
空港独特のコーヒーの香りに混じって、どこか甘い香水の匂いが漂う。
すれ違う人々の服装も洗練されていて、空港そのものがひとつの巨大なショールームのようだった。
エスカレーターを降りると、巨大な広告モニターが目に飛び込んでくる。
韓国のアイドル、化粧品ブランド、高級ファッションブランド。
————本当に韓国に来たんだ。
その実感が、ようやく胸の奥に落ちてきた。
ついに、ついに来てしまったのだ。
天国か地獄かよく分からない三か月間が、今まさに始まろうとしている。
足取りは鉛のように重い。
それでもキャリーケースのハンドルを握り直し、ユナは前を向いた。
仕事だ。仕事。
推し活でもなければ観光でもない。
そう自分に言い聞かせながら、入国審査へと続く長い通路を歩き始めた。
淡々と入国手続きを終えると、名札を下げた30代ぐらいの若い女性がにこにことした柔らかい笑顔で近づいてきた。
「あの……もしかして佐藤さん?」
「あ、えっと、そうです……けど。」
「あ!よかったあ!合ってた!
私、STARZEntertainmentのグローバル事業部 日本事業チームのチェ・ミンジュと申します!」
女性は流暢な日本語でそう答えると、手際よく名刺を差し出した。
どうやらリョウはマネージャーに釘を刺されて行動できなかったらしい。周りにリョウらしき男性の姿はどこにも見当たらない。
初手で接触するSTARZの関係者がリョウじゃなくて本当に良かったと、ユナは胸を撫で下ろした。
「あ、STARZの……!すみません、私、株式会社LinkBridgeから来ました、佐藤ユナです。韓国語で大丈夫ですよ。本日よりよろしくお願いします。」
ユナは慌てて名刺を差し出し、交換を済ませた。
「韓国語凄くお上手ですね。驚きました。」
「ははは、母が韓国人なので自然と覚えただけです。」
「そうだったんですね!韓国にはよくこられてるんですか?」
「まあ、年に何度か来てます。」
「そうなんですね!そしたら安心だ。早速ですが、宿舎までご案内しますので、外に向かいましょうか。」
女性はにこやかに外へと案内してくれた。
優しい。そして美人だ。STARZはスタッフまでも美人だと言うのか。
外に出ると、3月の仁川の風が頬を掠めた。
日本なら桜の話題がちらほら出始める頃だというのに、こちらの空気はまだ鋭い。乾いた冷気がコートの隙間から入り込み、じわりと体温を奪っていく。
それでも空を見上げれば雲ひとつない青空が広がっていて、その景色だけはどこか爽やかだった。
ユナは両手をポケットに突っ込みながら歩き出す。推しと同じ空気を吸っていると思えば、この寒さすら少しだけ我慢できる気がした。
「ささ、寒いので車に乗りましょう!……あ、あと……」
ミンジュは少し困ったような顔をして眉をひそめた。
「??」
「あの……SONICのリョウさんとはお知り合いなんでしょうか?」
ピタッとユナの表情が固まった。
リョウ。なぜ今そんな名前が出てくる。
確かに電話口では来そうな口ぶりだったが、さすがに無理だったんだろうとタカをくくっていたのだが。
「あ……えっと……まあ、幼馴染っていうか。」
「はは……そうなんですね。実は……」
「——————車に待機してて……。」
女性は困ったように苦笑いした。
何……!?
ユナは一度目を見開いて驚いたが、額に手を当てて、諦めたように大きくため息をついた。油断していた。あの男が来ないわけがなかった。
「はあ……そうなんですね……。」
「はい。本当にすみません。ま、まあ、マネージャーのドンフンさんが外には絶対出るなって言って制止してますので、何かトラブルに巻き込まれるとか、そうことはないと思います……多分。」
女性はバツが悪そうに視線をそらし、頭を下げた。
どうやらこの男の横暴で自分勝手なところはスタッフも相当手を焼いているらしい。
「そんな、謝ることじゃないですよ……ははは……」
乾いた笑いがロータリーに響いた。
あの男が大人しくしているわけがない。分かってはいたが。
しばらく歩いていると、黒のSUVが威圧感を放って待機していた。
運転席には服の上からでもよく分かるほどに体格のいい黒髪短髪の男性が乗っていた。
後部座席には濃いスモークがかけられていて中に誰が乗っているのかは分からない。
女性がニコリと微笑んで手をあげると、サッと男性が運転席から降りてきた。
「あなたが佐藤ユナさんですね。お話は伺っています。マネジメント部のソンドンフンと申します。SONICを主に担当しています。」
事務的でやや冷徹なトーンでドンフンはユナに名刺を差し出した。ユナも自然と名刺を差し出し、スマートに交換を済ませた。
「佐藤ユナと申します。本日よりよろしくお願いします。」
「……佐藤さん、早速で申し訳ないのですが、すぐに乗り込んでいただけますか。ミンジュから聞いているかとは思うのですが、その……『あの人』が乗ってますので。そろそろ限界な様子で。」
あの人、が誰を指すのかは明確だった。
マネージャーにあの人呼ばわりされるってなんだ。
ヴォルデモートか。
「あ……はい。」
ユナは遠い目で後ろの車を見つめた。
あのスモークガラスの裏にどんな顔をして待機しているのか、ユナには容易に想像ができた。
その瞬間。
後部座席の窓がゆっくりと降り、窓に腕をかけながら、人影がこちらを覗いた。
ユナの心臓がピシッと音を立てたかのように凍りついた。
サングラスにマスクをして顔を隠しているが、それが誰かは明確だった。
「おーい、待ってんだけど?」
間延びした声がロータリーに響き渡った。
あの軽さと低さを兼ね備えたような独特な声は間違いなく
——————リョウだ。
その瞬間、
ドンフンが慌ててリョウの存在を隠しつつ、
ドアを開け、すぐさまこう言い放った。
「……ッ!ユナさん、早く乗ってください。マスコミに目をつけられたら困る。」
真剣な眼差しでドンフンはグイッとユナの肩を掴むと、スモークガラスの向こう側へと押しやった。
「あ、えっ!はい!?」
抵抗する暇もなく、ユナは後部座席の黒光りした革製のシートの上に腰を下ろした。
バンッ、とドンフンが荒々しくドアを閉める音が響くと、
先程までのロータリーの喧騒を嘘のように一瞬でかき消してしまった。
隣に座る男との間には、張り詰めた妙な緊張感だけが静かに流れる。
ユナは動揺を悟られまいと鼻から少しだけ息を漏らした。
車内に立ち込めるオードトワレのスパイシーな香りが、不意にユナの鼻を掠め、ドクンドクンと、ユナの心拍数を上げる促進剤となった。
ユナは体全体を硬直させ、震えていた拳をギュッと
白くなるほどに握りしめた。
視線を自分の足元へと縫い付けるように集中させ、必死に平静を装った。
見るな。目を合わせるな。
その瞬間、この緊張感を嘲笑うかのような軽い声が、ユナの右耳を刺し、沈黙の車内に反響した。
「よぉ、久しぶりじゃん。ユナ。」




