87話 懸念2
(ああ……やっと着いた……)
窓の向こうに目をやったレティシアは、暗闇に浮かぶ伯爵邸の明かりを見てため息を吐いた。
邸に移送され早九日。レティシアが待ち望んでいた情報収集の場は意外なことにすぐに訪れた。誘拐前に決まっていた舞踏会らしく、欠席して変な噂を立てられるよりは出席した方がマシだと判断したようだ。貴族が体裁を気にする生き物でよかった。社交界に出席できるとわかったレティシアはすぐさま準備した。
(恐らく連中は私に接触してくるはず)
第五区を襲撃したとしても、真の目的である国家転覆は終わっていない。だというのに凶賊たちがリーズで騒動を起こしたうえ、何人かは軍に拘束されるという事態になった。だから黒幕は今、軍にどこまで情報を把握されているのか探っているところだろう。そうなると、リーズの騒動の原因ともなったレティシアの動向にも注視していると考えていい。
(私が敵側なら、誘拐中のことを軍に伝えているのか、伝えているのならその内容を確認しにくる)
そして確認するにも、貴族社会に入って間もないレティシアと接触するには社交界しかなく、敵は黒幕側の人間を差し向けてくるしかない。つまりレティシアにとってはチャンスということ。ただ、懸念していることがある。
(ヴァスバード侯爵のことだから、絶対に邪魔してくるわ)
あの堅物軍人はレティシアが黒幕に報復するつもりだと知っている。そうなると間違いなく邪魔をしてくるはずだ。
その邪魔をする一番の方法は、レティシアを社交界に出させないことなのだが、今回は既に出席が決まっている。ならば伯爵と交友関係がある、軍に所属している貴族やその子息に極秘命令を出し、夜会に潜り込ませて監視させるだろう。
だからレティシアはその対処法として、舞踏会では情報収集はせずに、男を釣ることにした。公の場では監視できても、個人的な付き合いまでは監視できないから。
釣った男のスペックは気にしない。その男が優秀なら自分の手足にできるし、優秀でなくてもその男を介して他の貴族と交友を持てれば十分。親しくなった貴族から情報を手に入れられるかもしれないし、何より間口を広げておけば、黒幕もレティシアに接触しやすくなるだろう。
そうと決まればあとは準備だ。レティシアは舞踏会に呼ばれていそうな貴族たちとその情報を書き出し始めた。
こうして準備も気合も万全にして当日を迎えた。なのだが、レニードアン伯爵の邸があるユステル領までの片道二日、こうも道中ずっと鬱陶しいと、レティシアの忍耐力にも限界がくるというもので、到着があと少し遅ければ手が出ていたと思う。
(心を落ち着かせなきゃ。こんな男にいちいち精神を乱されていたら、目的が果たせないわ)
心の中で言い聞かせ、馬車が止まると同時にレティシアはもう一度ため息を吐く。
(よし)
苛立ちも殺気も全てお嬢様の仮面の下に隠すと、ゆっくりと馬車を降りた。
(なるほど。だから夜の間か)
邸内の東側ある舞踏会の会場に着いたレティシアは、思わず感嘆する。高い天井は一面紺鉄色に塗られており、そこから幾つも吊り下げられた輝星石のオーナメントが、シャンデアに照らされてキラキラと輝いていた。それがまるで満天の星空のように見えて、ロマンチストでなくとも素晴らしいと思った。
(これなら多少積極的でも不自然には映らないだろう)
レティシアは目を輝かせた、好奇心旺盛なお嬢様の顔に切り替えると、煌びやかな世界に入っていった。
(前は鬱陶しいだけだった視線に、まさかこんなにもワクワクするなんて)
一斉に向けられた視線と、ざわめきの中を歩きながら、レティシアは内心ほくそ笑んだ。好奇心に下心に悪意と相変わらずだが、今もこれだけ注目されるということは、獲物が釣れる確率が高いということ。そうなると俄然やる気が出てきた。
レティシアはローレンスに連れられる形で、一人の男性の元へと向かう。ローレンスが「レードニアン卿」と呼んだので、彼が主催者らしい。貴族というより商人のような雰囲気で、情報通りの人物のようだとレティシアが値踏みしていれば、親し気に話していたローレンスがレティシアを見た。
「紹介するよ。僕の娘のレティシアだ」
「レニードアン伯爵様。本日はご招待いただきまして、ありがとうございます。私はレティシアと申します」
少し緊張した面持ちで淑女の挨拶をすると、伯爵は目を細めた。
「ようこそお越しくださいました。レティシアお嬢様にお会いできるとは嬉しい限りです。噂には聞いておりましたが、本当に公爵によく似ていらっしゃる」
「?!」
伯爵は軽快に笑っているが、レティシアは歪みそうになる表情を耐えるのに必死だった。世辞だろうと本心だろうと口にするんじゃない。せっかく仮面の下に隠した怒りがまたぐつぐつと湧いてきた。
「王城の舞踏会と違って堅苦しいものではありませんから、肩の力を抜いてどうぞ楽しんでください」
「ありがとうございます……」
「ラインベール卿も。くれぐれもご無理をなさらないように」
「そうさせてもらうよ」
挨拶を終えると、レティシアはローレンスと共に場所を移動する。するとすぐにローレンスの名が呼ばれ、上流階級らしき夫妻がやってきた。レティシアも先ほどと同じように挨拶をしつつ、頭の中に叩き込んで来た彼らの情報を引っ張り出す。
生憎、自分の獲物になる人物ではなかったが、今この様子を見ているであろう下心満々の男たちが声を掛けやすい雰囲気を作らなければならないので、レティシアはお嬢様の笑顔を張り付けて談笑の対応する。そうしてしばらく、様々な貴族たちに黒い愛想を振りまいていたのだが。
(なんで獲物が来ない!)
心の中で思いっきり叫ぶ。今のところ来るのはローレンスの知り合いか、ローレンスに取り入りたい人物ばかりで、レティシアを
下心を持った男たちは近づいて来る気配すらない。
(一曲誘おうという気概のある男は一人もいないのか)
腰抜けばかりじゃないかと、レティシアは内心悪態を吐き、ん?と思ってローレンスを見た。もしかしたらこの男が隣にいるせいだろうか。そうかもしれない。
(ああ、私の一番の障害はこの男か)
それなら人目のつかないところに行くしかない。じれったいだけの時間が続き、体感時間一刻近くなろうという頃にはだいぶ視線が減った。残っている視線の主は監視と、レティシアに興味を持っている人間だろう。そろそろいい頃合いかと思って、レティシアは向こうから年配の貴族が近づいて来るのを見計らい、動き出した。
「少し疲れたので休んできます」
「レティシア?!」
ローレンスに止められる前に、足早に客が多くいる方向に歩き出した。それから普通の速度で客の間を抜けながら広間を回り、二階のバルコニーに出た。
(うーん。この辺かしら?)
レティシアは灯りも乏しく、眼下の景色もよくなく、音楽もほとんど聞こえない一角を陣取った。ここなら庭と違って浮かれて良からぬ愉しみをする男女も、休憩しようという者も来ないだろう。つまり、下心ある連中にとって絶好のシチュエーションだ。
(まあ半刻くらいはローレンスも貴族を相手にしていて来られないだろう)
あとは半刻以内に獲物が来るのを待つだけだ。
そうしてレティシアが空を見上げながら風に当たっていると、早速こちらに向かってくる足音が聞こえて来た。
「こんばんは。お飲み物はいかがですか?」
爽やかな笑みを浮かべた男が、グラスを差し出してきた。レティシアは少し驚いた表情をしたあとで、すぐに笑みを浮かべ、お礼を言って受け取った。男は初めて見る顔で、貴公子とは言い難いが、一般的には女受けしそうだと思った。
「素敵なお嬢様とお会いできたことに、乾杯」
お互いグラスを小さく傾けると、澄んだ音が響く。薬が盛られている可能性も否定できないから飲みたくないのだが、ここは雰囲気が大事。レティシアも一口飲んだ。
「噂にはお聞きしていましたが、本当にお美しい。月の女神のようです」
「そんな、買い被りすぎですわ」
ひい、と出かかった悲鳴を堪えたレティシアは、恥ずかしいという表情をしながら首を横に振った。なんか似た台詞を前にも聞いた気がする。
「お嬢様は踊られないのですか?」
「え、ええ……。その……あまり得意ではなくて」
目を逸らし、声を小さくして恥ずかしそうに答える。ちなみに『あまり得意ではない』ではなく、『不得意』と言った方が正しい。
「それは失礼いたしました。でもおかげでお嬢様とお話しする機会を得られたのですから、僕としては嬉しいですね」
レティシアは恥はにかむような笑顔を作りながら、この男は監視ではなく、馬鹿な獲物だと結論づけていた。
きっとこの男は頭の中で、レティシアを落とす手段を考えているのだろう。普段なら反吐が出ているところだが、今は一人でも多くの貴族と繋がりを持つことの方が大事。嫌男感も鳥肌も根性で押さえて、男心をくすぐるような女を演じる。
「あの……失礼ですが、お名前をお伺いしても? 私はレティシア・ハインカルツェです」
レティシアは庶民っぽく挨拶した。まだ垢抜けていない女と思わせた方が食いつきがいいだろう。どのという思惑通り、男はレティシアを可愛いというような目で見ていた。その視線にゾッとしながらも、レティシアは頑張って釣った魚に餌をちらつかせ続けた。




