86話 懸念1
ヴィンセントが中央部隊の基地に戻ったのはその日の夜遅くだった。まだ残っていた副官から自分の留守中の報告を聞いた後、彼を帰した。二十日あまり留守にしていたので机の上には処理しなければならない書類が山積みになっているが、そちらには目もくれずに肘をついて考え込んでいた。
(十二件目の呪陣事件か……)
中央部隊の管轄で起きた事件ではないため報告書はないが、別件でエレンツィオが調査をしているので、彼が報告だけ入れたようだ。こんなときに事件とは、と思いつつ、時期的に考えると妥当な時期かとも思う。
ヴィンセントがこうも憂慮しているのは、九日後にラインベール公爵が社交界に出席するからだ。黒幕と接触しているレティシアを放っておかないだろう。敵がレティシアをまた誘拐する可能性が否定できず、彼女は彼女でわざと敵に捕まる可能性があるので、ただ護衛を付けるだけでは安心できなかった。
(義理を果たしたら夜会を早々に切り上げるよう、公爵にお願いするか……)
ヴィンセントが書類を見ながら頭を悩ませていると、部屋の片隅から小さな音がした。そちらに目をやると、鳥籠の中で、小さな灰色の鳥が柵に顔をくっつけてこちらをじっと見つめていた。カイから三日前に送られてきた、連絡鳥という伝書鳩で、通常の伝書鳩と異なり、人の匂いを覚えさせて連絡をやり取りできるという。カイから話は聞いていたが、実際に移動中のヴィンセントの元に鳥が来たときには本当に驚いた。
鳥がじっと見つめたまま動かないため、何かあったのかと思って近づいたが、鳥はヴィンセントを見るだけで、皿には餌も水も入っていた。要求があるわけではないらしい。不思議な鳥だ。
席に戻ったヴィンセントは内ポケットから鳥が運んできたメモを取り出す。レティシアの護衛の件も早急に決めなければならないが、こちらの方も緊急招集までにまとめなければならなかった。
(軍の力は借りないと言っていなかったか)
小さなため息を吐いた。メモは凶賊が国営軍で使っている暗号で書かれていたことは一旦置いておいて、書き連ねられた大量の支援物資に小さなため息を吐いた。食糧や武器、薬などがこちらが書かれていて、さらにそれが絶対許可できない数量であるところを見て、ここから譲歩していく腹積もりでいるらしい。レティシアの、例え嫌いな相手でも使うと決まればとことん使おうとする精神は、モンテアーノ家の教育の賜物のようだ。第五区での素の彼女の表情を思い出し、ヴィンセントは小さく笑った。
基地で仮眠を取ったヴィンセントは、翌日早々にエレンツィオを呼び出した。
「十二件目の事件ですが、大将が第五区に行って十日後、東南にある港町の丘で発見されました。これまでと同様、犯人に繋がる証拠や目撃情報はないです」
エレンツィオは東部隊の報告書の写しと、地図を見せながら説明する。今回は田舎ではあるが、東部隊の駐屯所と比較的近い場所で起こっていて、呪陣の中央には小鹿の死体が置かれていたらしい。ヴィンセントは報告書を見ながら、門に使われる記号を探したが、この模様の中に当てはまる形はなかった。
「……贄の大きさ、事件が起きる周期で考えると、同一犯の可能性が高いだろうな」
「ええ。その時期の社交界での噂は、相変わらずレティシア嬢とラインベール公爵が中心でした。彼女が誘拐中、ラインベール公爵が体調不良を理由に夜会を欠席したので、そこから色々な憶測が飛び交いまして」
言葉を濁すエレンツィオ。その言い方で憶測が決していい話ではないことがわかった。
「事件現場の付近に所縁のある者の噂はないのか?」
事件があった場所はハインカルツェ公爵家どころか、ファンルドー男爵家の所縁の地でもない。だとしたら別の人物の噂が出ているのではないかと思ったのだが。
「そのことなんですが……。実はその近くにある東部隊の駐屯所は、ラインベール公爵が軍人だった頃に駐在していた場所だということです」
ヴィンセントは眉を顰めた。全部隊の軍人の話を名簿の中で彼の名前を見たことがなかった。それに西部に領地を持つハインカルツェ公爵家ならば、西部隊に所属するはず。
「ラインベール公爵いわく、ハインカルツェ家の姓ではなく、母方の祖母の姓を名乗り、そちらの邸を居住地にしたと言っていました。髪も染めていたそうです」
「……公爵が東部隊にいたことを知る者は?」
「当時の元帥とハインカルツェ公爵一家、東部隊のエバンシカ侯爵だそうです。他に気づいていた者がいた可能性は否めませんが」
ヴィンセントも頷く。身分の高い者が己より身分の低い者の顔を知らないことはあっても、その逆は違う。ハインカルツェ公爵家の息子となれば、多くの貴族が彼の顔を知っているだろう。やはり黒幕に貴族がいるのは確かだと考えていれば、エレンツィオが声を低くして、
「それともう一つ。そこの港町は、赤子だったレティシア嬢と母君が二年ほど住んでいた場所でもあるそうです」
「なに?」
思いがけない話にヴィンセントは瞠目した。
「正確には母君が生家を出てからの約ニ年ほどです。ファンルドー男爵からの情報ですが、彼が独自に調べたことと、レティシア嬢の母君が生前に告白した内容とも一致しているので、間違いはないかと」
「……二人がそこで暮らしていたことを知っている者は?」
「ファンルドー男爵と前当主、ラインベール公爵、国王陛下だけだそうです」
ヴィンセントはしばらく考え込んだ。今挙げられた中に、レティシアに敵意を持つ人物はいない。だとしたら犯人はどこからその情報を得たのか。彼らのそばにいる人物が敵と通じている可能性はなくはないが、あったとしても低いだろうと思えた。
「今回事件が起きた近辺で、不審な人物を見なかったか、東部隊と共に重点的に調べるつもりです」
「頼む。それと捕らえた凶賊たちは口を割ったか? イーツカルツェ公爵の話だとあまり思わしくないようだが」
ヴィンセントが尋ねると、エレンツィオは渋い顔をした。
「ええ。全員口は割っていて、一人一人の自白は一貫しているのですが、総合するとおかしい状態で。端的に言えば、連中が会ったという人物情報が誰一人として一致していません」
「仲介者が複数人いるからではないのか?」
「いえ、同時に同じ人物に会ったはずなのに、その人物像が違うのです。顔や身長だけでなく、年齢や性別も。……捜査の撹乱を目的にしているのかもしれませんが、それにしては奇妙な状態で、みんな困惑しています」
「……」
恐らくは魔女の呪いだろう。しかし魔女の存在は自分を含めたごく一部の人間しか知らない事実であり、それを告げて悪戯に恐怖を与えて混乱をもたらすことは避けたいので、ヴィンセントは凶賊が偽りの情報を言っているということにして、しばらくは放置し、時間を置いてからまた尋問を再開するよう指示した。
エレンツィオが部屋を出て行くと、ヴィンセントは考え込んだ。今の話を聞く限り、魔女の力が影響しているように思えた。もしも尋問でこの不可解な状況が続けば、違和感を持つ部下が出てくるはず。そこから呪いの可能性に気づく者が現れるかもしれない。
(私が尋問するべきか……)
他に適役の人物がいるだろうかと考えたときに、ふとレティシアは魔女が黒幕にいる可能性に気づいているのか、不安を覚えた。




