75話 帰路1
レティシアはコルセットを締め上げて胸を潰し、男の服を着る。そして髪を結い上げて完全男装する。そして部屋を出れば、隣の部屋には既に支度を終えたヴァスバード侯爵がいた。
「……もう大丈夫なのか? まだ休んでいた方がいいのでは?」
「問題ないわ」
休んだ方がいいのはそっちでしょ、という言葉は腹の中に留めておいた。
どうしてそうなったのか全然記憶にないが、今朝レティシアは彼の膝の上で目を覚ました。状況的に考えると、レティシアの指にヴァスバード侯爵の服が引っ掛かり、その糸を外せずにそのまま一晩過ごしたらしい。どれだけ不器用なんだ。
「それで、ここはどこ?」
「情報屋の隠れ家だそうだ。昨日、上の街から出られずに迷っていたところにアビが来てくれたんだ」
上の街、と言われて段々と昨日のことを思い出す。ヴァスバード侯爵と口論になって、そしたら三下が現れて、なぜかそいつがボスの短剣を持っていて、それでーー
「これから王都へ戻る。アビが道を教えてくれた」
レティシアは思考を止め、ふざけたことを言い出した目の前の男を睨む。
「敵から聞き出した情報によると、モンテアーノ家の支配地は既に陥落していて、今は残党狩りの最中。それも三階層の方にまで敵の手が及び始めている。これ以上ここにいるのは危険だ。だから当初の約束通り、王都へ戻る」
「イヤ」
レティシアが即答すればヴァスバード侯爵は小さくため息を吐く。呆れたというより、予想通りという感じのため息だ。
「敵が吐いた情報が正しいとは限らないと言いたのだろうが、既に他の一階層が敵の手に落ちたことは情報屋が確認済みで、かつ逃げることを選択した。嗅覚の鋭い情報屋がそう選択したということは、それだけ危険だということ」
「それが?」
「君は唯一、凶賊の裏にいる黒幕と接触した人間だ。敵を仇討ちを考えているのならば無茶をするのではなく、機会を窺うべきでは?」
「それで王都に行って軍に協力しろと?」
「仇を取れるなら、軍を利用するのも手だと思うが?」
この男がこういうことを自分から言い出すということは絶対に裏がある。どうせそれっぽいことを言って、絶対にレティシアを介入させないだろう。とはいえ今のレティシアには敵と戦う手段がない。唯一の武器だった指輪と腕輪も、たぶんヴァスバード侯爵に盗られてしまったし。
どうやってこの男を振り切ろうとレティシアが考えあぐねていれば、
「君にこれを。昨夜、アビから預かった」
ヴァスバード侯爵は革紐でできた首飾りをレティシアに手渡した。革紐の先には大型肉食獣の牙のような形の乳白色の石が一つぶら下がっている。
「お守りだそうだ」
「……なんで……」
レティシアはお守りを手に、ポカンとした顔で呟く。道というからてっきり市井への門がある場所でアビが待っているのだと思っていた。それがまさか、門を作る大事な大事な鍵をレティシアに渡すなんて。
「友人だからだろう? アビは君のことをずいぶん心配していたよ」
レティシアが驚いている理由を勘違いしたヴァスバード侯爵が、斜め向こうの言葉を掛けてくる。
(そういうことじゃないんだけど)
ちょうどいいと、彼の勘違いに乗ることにした。
「……わかった、市井に向かう。ただし市井に行っても対価なしには絶対協力しないし、対価は黒幕の情報の一択。ちゃんと書面にしてちょうだい」
「承知した」
裏があるのはお互い様だ。レティシアは再び協定を結んだ。
そうして食事を終えると、早々に隠れ家を後にした。行き先はもう一つの隠れ家で、そこに市井に直接繋がっている門があるという。ヴァスバード侯爵の後ろを歩きつつ、右手首に巻いたお守りを握り締めた。
レティシアが方針転換したのは他でもない、鍵が手元にあるからだ。鍵は門を作ったり閉じたりするのに必要な道具であり、数少ない貴重なもの。それが今、レティシアの手元にあるのだ。
(これでいつでも第五区に来れるわ)
そうとなればここは一旦引いた方がいい。そう判断して王都へ行くことに同意した。
(でも出口がある壁を壊されちゃ来られなくなるから、早めに戻らないと)
いつ、どうやってこの男を出し抜こうか。そんなことを考えていると、不意に彼の足が止まった。崖側の方に来たらしく、眼下を見たまま眉を顰めている。
「もしかして迷ったの?」
「ああ。ここから大きな木が見えるから、それを目指せと言われたんだが……」
彼の視線の先を見たレティシアは、「あー、なるほど」と呟いた。向かって左側には緑が生い茂った木が、右側には枯れかけの木が見えた。
「大きな木って言ったんならこっち」
レティシアは右の、緑寂しい木を指差した。
「あちらの方が大木なのでは?」
「だってそっちにあるのはモクモクの木だから」
眉を顰めたヴァスバード侯爵を見て、説明が足りなかったと気づく。
「えーっと、モクモクの木っていうのは見た目は木だけど、木という扱いをしてないんだよ。材木にも薪にもならないから、雑草以下」
「それで下層階の方でもあったのか」
前にレティシアに連れられて第五区の一部を見下ろしたヴァスバード侯爵は、そのときの景色の中にあるのを見ていたらしい。
「あれは切るだけ時間も労力も無駄だから、みんな放置してんだよ」
軽く説明をしながら裏道を抜け、大木の近くまで来て、レティシアは半目になった。どこが隠れ家だと言われなくてもわかる。一軒だけガラクタが溢れている家がある。
(……断捨離しろよ)
絶対に隠れる気がないだろう。あの親父、身を隠すために拠点を幾つも構えているんじゃなくて、ガラクタが入りきらなくなるから、新しい拠点を作っているだけではないだろうか。
呆れながら家の中に入れば、案の定、床にはガラクタが山積みにされていた。ちなみに店舗の奥はもっとひどかった。
(どこかに作りかけの門があるはずだけど……)
レティシアに鍵を渡したのは、前にアビがやっていたように、線を書き足して門を完成させろということ。門を作る場所は決められているし、目に見えなくても鍵が共鳴するから、絶対に見つかるとはわかっているのだが。
「じゃあ後よろしく」
レティシアは箱の上に腰かけた。ゴミの山を退けながらヴァスバード侯爵の目を掻い潜って作り途中の門を探す、なんてことをやる気が全く起きない。
「……君も探してくれ。さすがに一人で、この範囲を何の手掛かりなしに探すのは厳しい」
「壁か床にあると思うわ」
「それはずいぶん大雑把すぎだな」
「だってアビがどこに作ったのかなんて知らないもの」
レティシアは隠すことなくやる気のなさを表に出す。というかこの男さえいなければ、第五区にとどまっていられるのにと、レティシアはため息を吐いた。
レティシアは昨夜のことをさっぱり何にも覚えていなかった




