73話 現実4
レティシアはただ呆然と目の前の人を見ていた。
「つ、い、ほう……? 私が……?」
ヴァッセが告げた言葉は、凶賊では死罪に次ぐ処罰だった。一家から追放されればもう二度と家には戻れないし、傘下の凶賊を含めた支配地に足を踏み入れることすら許されない、極めて重い刑だ。
「わかったらサッサと失せろ」
目の前の王者は、素っ気なく言い放つと席を立った。
「待って!! なんで?! 私、なんの失態を……っ!」
「ルタ、止まれ!」
ヴァッセを追いかけようと立ち上がったが、兄貴分のカイに押さえられてしまった。
「待って! ねえ、どうして!!」
どうして!
なんでその刑を下されたのか、思い当たることは何一つなかった。レティシアは扉の向こうに消えていくあの人の背中を見送るしかなかった。
◆◆◆
うそだ。
そだ、うそだ、うそだ。
あの人は死んでない、死ぬはずがない。
今でもヴァッセと暮らした日々が、昨日のことのように鮮明に思い出せる。文字を教えてくれたこと、体術や護身術を教えてくれたこと、ワルツを踊ったこと。それからそれからーー
誰よりも強かった。誰よりも博識で、偉大なあの人が死ぬはずがない。
(……この目で確かめるまでは信じない)
レティシアは目を開けると起き上がった。ここがどこなのか、どうしてここにいるのか、普段なら一番に気にすることも、全く眼中になかった。今のレティシアの頭の中は、どうやったら上の街に潜り込むかということだけが占めていたのだ。
二階層の街は阻塞が築かれ、見張りもいるから親父は忍び込まなかったという。だがそれはリスクを避けたからで、上に潜り込めないわけではない。
レティシアは男物のシャツとズボンを脱ぐと胸を潰していたコルセットを外し、今度は通常通りに装着して紐を縛り始めた。上に行けないなら、向こうから招き入れさせればいい。
女物の服はないが女物の下着なら着ている。男物の服でも使えるように裾を膝丈に切っているので、見栄えとしてはよくないが、十分娼婦には見えるだろう。
第五区はどの街でも夜になると道端に娼婦や男娼が立っているので、警戒されることはない。阻塞を見張っているのは忠誠心のない三下であり、下着姿の女が道端にいれば、誰かしら食いつくだろう。あの狡猾男と同じように。
そうして手が届くところまでコルセットの紐を締め終え、結っていた髪を解いたときだった。
「……何をしている」
ヴァスバード侯爵が部屋に入ってきた。だがレティシアは彼の問いに答えることも、一瞥することもなく、手櫛で髪を整える。彼の相手をしている時間などないのだ。
「レティシア嬢。愚かな真似は止めなさい」
右手首を掴まれ、レティシアは邪魔者を睨めつけた。
「そんなことをして敵の懐に飛び込めるとでも思っているのか?」
「飛び込めないと言い切れるの?」
手を振りほどこうと右手を振るが、ヴァスバード侯爵は手を離さない。
「無意味なことをして何になる。今の君は一時の感情に流されているだけだ。それとも君のボスは、目的のためなら自分の心身を軽視しろと君に教えたのか?」
「よくも知った口を……っ!」
ヴァッセのことを持ち出された瞬間、一気に頭に血が上り、殴ろうと左手を動かした。しかしそれよりも先にヴァスバード侯爵に強く抱き寄せられ、左手は空を切った。
「レティシア、落ち着きなさい」
「放せ!」
暴れるが彼は微動だにしない。体勢が悪くて足技が使えない。
「邪魔だっ!」
レティシアは親指を動かし指輪の仕掛けを解いて針を出すと、目を狙って右手を動かした。
「己の力を見誤るな、レティシア」
突然響いた低く鋭い声に、レティシアは本能的に強者の圧を感じ、動きを止めた。
「君は一般的な女性よりも武に長けていても、男に勝っているわけではない。だからこそ、女は無力だという男の思い込みを利用しているのだろう? だがそれが通用するのは精々、巡回している実力の凶賊だ。それも単独の」
レティシアの肩が強い力で掴まれ、直後にグッと引き離される。強制的に目が合った。薄緑色の瞳はヴァッセとは違う、けれど強者の色を帯びていた。
「今狙っているのは数多の凶賊たちを押さえていた有力凶賊にも、情報屋にも悟られずに貴族と手を組み、事を運んでいる強敵だ。例え三下たちの拠点に潜り込めても、そこからどうする? 私一人に勝てない君が、奴らに勝てるとでも?」
「……っ!」
「今の君では、一矢報いることもできぬまま犬死にするだけだ」
彼の容赦ない言葉は、レティシアの頭に昇った血を引かせていった。
「私は君の敵でなければ、君の邪魔をしているのでもない。だが君は唯一黒幕と接触した人間だ。ここで君を失うわけにはいかないのだ」
すっぽりと抜け落ちていた事実に、レティシアはハッとする。
「……レティシア。君が今するべきことは死に急ぐことではなく、生きて帰ることだ。黒幕を捕らえるために。そして君を守るために追放したボスのために」
「……どういうこと……?」
思わぬ言葉にレティシアは目を大きく見開き、目の前の顔を見た。その顔からは先ほどの険しさは消えていた。
「貴族である君の身分が知れ渡れば、君は数多の凶賊から狙われる。それだけじゃない。君の生い立ちが公になれば、君は貴族社会に入れなくなる。そうなる前にボスは君を追放したんだ。君が生きるべき世界に返すために。そうでなかったら定期的にスファンに君の様子を見に行かせないだろう」
領地でスファンと会ったのは運が良かったのではなく、何度かあった機会のうちの一つだった。その事実にレティシアは呆然とした。
「……なん、で……?」
レティシアの視界に、もはやヴァスバード侯爵の姿は映っていなかった。二年半前、突然追放を言い渡された日の光景が蘇っていたからだ。
あの日、用件は済んだとばかりにヴァッセはすぐにレティシアに背を向け、行ってしまった。取り付く島もないまま家を追われたレティシアは、母のいる静養地に向かうしかなかった。そして間もなく現れたファンルドー男爵に引き取られ、完全に家族との繋がりは絶たれてしまった。
きっと養父が母を探していると知ったヴァッセが、面倒になる前に追い払ったのだとそう思っていた。だけどもし、そうではなかったとしたら、一体なぜ。
(ヴァッセ……っ!)
レティシアの心ははち切れた。




