65話 上層階へ2
ヴァスバード侯爵と組んで旅するメリットは一割、デメリット九割。それがこの二日間の結果だ。最初からわかっていたことではあるが、常に視界にいることが思った以上にストレスだった。
(羅人盤さえ奪えればどうにでもなるのに)
レティシアは歯ぎしりをする。あれが彼の手にある限り、逃げたところですぐに捕まってしまう。だから従ったフリをして隙を見て奪おうと思っていたのだが、この男、なかなかその隙を見せない。用心深いだけでなく、軍人ゆえに気配に敏感で、就寝時もチャンスにならないのだ。
そのうえ昨夜、何を思ったのか、堅物軍人はレティシアの横で寝てくれた。ベッドの幅はそこそこあるとはいえ、女と同じベッドで寝るか普通。
しかもレティシアが嫌味を言えば、「君はそういうことを気にする質だったのか?」と返された。あの様子だと今日も平然と横で寝るだろう。
予想だにしなかったこの行動は、ただでさえ羅人盤を奪える少ない機会を、さらに少なくしてくれた。
(おまけに古今東西、男を油断させる一番の方法、色仕掛けが効かないって……けっこう痛手だな)
女に興味がないから、女と同じベッドで寝られるのだろう。ムダな労力を使わずに済んだが、最終手段が使えないと、きちんと作戦を立てなければならない。
(いや、私を女と思ってないからだとしたらチャンスはあるか)
考え直す。こういう男こそ、案外ちゃんとした女相手なら豹変するかもしれない。
(騙せるとしたら公衆浴場か)
第五区にも市井と同じく、公衆浴場という施設がある。ただし風呂は風呂でもこちらの風呂は、娼婦たちがお相手してくれる、娼館の一種だ。
そうとは知らずに入ったとしてもせっかくきた客を娼婦が逃すわけないし、彼女たちは百戦錬磨。いくら淡白な男だろうとその気にさせるのはお手の物だろう。さすがにその間は荷物のことは頭から離れているはずだ。
(でも公衆浴場じゃ、荷物を漁れないんだよな)
公衆風呂は凶賊によって運営されているから忍び込ないし、それ以前に掴まって売り物にされるだろう。
(公衆風呂はダメでも、娼婦に話を持ちかけられたら)
まだ三階層だから家や娼館に属していない娼婦たちが街角に立っていたりする。彼女たちならきちんと報酬を出せば引き受けてくれるかもしれない。頭の中でそんなことを考えていれば、じっとりとした視線を感じる。
「なに?」
「何を考えている」
「何をって、今日は短そうだなって」
パッと閃かなくていかにも言い訳っぽい言葉しか出てこなかった。しかしヴァスバード侯爵は怪訝な顔をする。
「短そうとは?」
「日中の時間に決まって……ん? スファンのヤツ、もしかして説明省いたのか」
「説明?」
「ああ、後でね。ここの常識だから」
常識を説明していたら自ら余所者だと言ってるも同然。だから説明は後回しにした。ヴァスバード侯爵はそうかと返事をして、それ以上追及してはこなかった。
(よかった、うまいこと誤魔化せて)
レティシアは心を撫で下ろした。
「一体どういうことだ?」
宿に入ったヴァスバード侯爵は困惑していた。レティシアはというと、この男でも狼狽えることがあるのかと、座ってその姿を眺めていた。
ヴァスバード侯爵がこれほどまでに驚いているのは、今日は日が昇っている時間が五刻ほどしかなかったからだ。ちなみに昨日は九刻ほどあった。
「ここは一日の長さが一定じゃないのよ。ついでに四季も市井とは違うわね」
第五区は古の力が残る地なので、市井でいうところの不可思議な現象が当たり前に起こる。一日の長さ、正確には昼と夜の長さが日によって違うのも、その現象の一つだ。陽が出ている時間が二十刻もあると思いきや、翌日は五刻にも満たないこともある。
「まあ、天気と同じだと思って」
「……なかなか難しいことを言うな」
彼はため息混じりに呟く。その顔にはまだ困惑の色が残っている。
「門とやらも、その古の力を利用したものなのか?」
「そう。家によっては扉とか、呼び方は違うみたいだけど」
「スファンが『閉じた』、『作る』など言っていたが、それはどういうことだ?」
スファンから聞き出せなかったことを尋ねるヴァスバード侯爵。レティシアは心の中で、よくも余計なことを言ってくれたなと舌打ちした。やっぱり追加でもう一発殴っておかなければ。
「『作る』っていうのは、新たに道ができるところを探して門にすることね。一日の長さと同じく、道も気分によって変わるから。『閉じる』っていうのは、そのままの意味。開けたり閉じたりできるから門とか扉って名前で呼んでいる。開きっぱなしだったらただのトンネルでしょう?」
「確かにそうだが……」
「理屈とかは聞かないで。『そういうもの』としか答えられないから」
幼い頃に聞いたことはあるが、市井を知らない人間にはそれが不思議なことだという認識はしていなかったし、幼かったレティシアもそういうものかと受け入れてしまったので、他に説明のしようがない。
「なるほど、説明を聞いてもよくわからないが、君も正確なことはわかっていないのだな」
「そう。たぶん誰も知らないんじゃない?」
他人事のように答えるレティシア。澄ました顔をしながら、心の中では今日二度目の誤魔化し成功したことに安堵のため息を吐いていた。
先ほど彼にした説明は後半は真実だが、前半は真っ赤な嘘だ。作るというのは文字通り作ることだが、第五区を危険に晒すような情報を漏らすわけにはいかない。
「それと今日の食事だが」
「私は昨日買ったパンと蜂蜜酒があるから、一階でごゆっくり」
早く出て行けと言わんばかりに手をひらひらさせるレティシア。今日は日が落ちるのが早すぎて、酒場には既に客がいるからレティシアは部屋に籠ることにした。
「……わかってると思うが、くれぐれも外には出ないように」
「はいはい」
ヴァスバード侯爵は念押ししてから部屋から出て行く。なおその手には、羅人盤を含む貴重品や剣が入ってる荷物が握られていた。本当、隙のない男だ。
◆◆◆
一刻ほどは酒場にいただろうか。ヴィンセントが扉を四回ノックして部屋に入れば、レティシア嬢は鍛錬をしていた。前は恰好が恰好だったために一瞬しか見ていなかったが、改めて見ると彼女は基礎がしっかりできている人間の動きだと思った。
「何か有益な情報はあった?」
「有益とまではいかないな」
そう言いながら椅子に腰を下ろす。ヴィンセントがレティシア嬢を一人残し、酒場で食事をしていたのは情報収集のためだ。第五区では一般人も信用するなと言っていたが、このまま何の情報もなしに進むのはあまりに無謀すぎる。ゆえに弟が二階層に行ったっきりの母を探しているという設定で、それとなく上の状況を確認した。
「客の中に二階層から来た、二階層に知人がいる者はいなかったが、今のところ上の階層での不穏な噂を聞いた者はいないようだ。不審な人物と見ていないと」
「……そう。つまり本当に何も異変がないか、二層階より上は既に支配されてるかのどっちかってことね」
レティシア嬢は顔色一つ変えずに淡々と話した。ヴィンセントが話そうとしていたことを。
「……動揺しないのだな」
「動揺も何も、あれから半月近く経っているのだから、何も起きていないと思った方がおかしいでしょう。でもここじゃぁこれ以上の情報はないでしょうね」
「そのことだが、ここから五つほど町を過ぎると大きな街に出ると聞いた。そこで情報収集をしようと思う」
「わかったわ」
そう言って再び鍛練を始めたレティシア嬢。これが十年近く凶賊として生きてきた結果なのだろう。ヴィンセントは何ともいえない気持ちでその姿を見ていた。




