63話 取り引き3
第五区はイタリアのマテーラやクラーコをイメージしてます。
一晩ではレティシアの服は乾かず、結局ヴァスバード侯爵は服を買いに出かけた。レティシアはその背を見送ると、髪を一本に括って息を整える。そして彼が目の前にいる想定で、蹴りと殴打を繰り出した。手応えがなくてもストレス解消にはなる。
何がストレスかといえば、もちろん堅物軍人だ。正直なところ、レティシアはヴァスバード侯爵の申し出をこれっぽっちも信じていないし、期待もしていない。けれど協定を結んだ理由はただ一つ。
(たぶんあの男は羅人盤を持っている)
羅人盤とは門と同じく特殊な道具で、特定の人物の居場所を追うことができる。まだ一家にいた頃、頻繁に市井と第五区を行き来していたレティシアの居場所を把握するためにレティシア用の羅人盤を作っていた。恐らくスファンがそれをヴァスバード侯爵に渡していて、だからこの複雑怪奇なこの場所で彼はレティシアを捕らえられたのだ。だとしたら羅人盤を奪わない限り、逃げられはしない。
(だいたい最前線に立たないクセに、なんで体鍛えてんだよ!)
殴打を防いだだけでなく、腹を蹴ったのにすぐ追いかけてきた。ということは体にダメージを受けた場合の訓練もしているのだろう。生まれながらにして部隊の長になると決められているはずなのに、なぜ現場の兵士のような訓練を積んでいるのだ。そのせいで予定が狂ってしまった。
(一日ムダになったし、しかも上から目線だし)
男にあれこれ指示されるのは癪だ。それが貴族で天敵ともなればなおのこと。あまりにもムカつきすぎて、技を繰り出すことに没頭しすぎてしまったらしい。咳払いが聞こえてそちらを見れば、いつの間にかヴァスバード侯爵が戻ってきていた。扉の前に突っ立っている。
「なんか文句でも?」
レティシアがギロリと睨みつければ、
「体術の練習をするのはいいが、せめて着替えてからにしてくれ。君は集中すると周りの気配に気づかないようだから」
彼は服をベッドに置くと再び部屋を出て行った。その間に着替えろということらしい。
「ムカつく!」
本当気に食わない。あの涼しい顔した男にいつか必ず一泡吹かせてやると、鼻息を荒くしながら着替えた。
男装したレティシアが宿を後にしたのは、昼をとおに過ぎてからだ。出立するにしてはあまりに遅い。半日もムダにしたと心の中で文句を言いながら、レティシアは足早に進む。
「そんな早く歩くと体力がもたないぞ、ルタ」
「……誰に言ってんのさ、ヴィンス」
レティシアは苛立ちを隠しもせず、帽子の下から隣の男を睨み上げた。そこら辺の令嬢と一緒にされたくないし、だいたい誰のせいで慌てる羽目になったと思っているんだ。それにだ。
(この男に呼ばれると、名前を汚された気分だわ)
レティシアは思いっきり顔を歪めた。ルタというのはレティシアが昔使っていた愛称だ。天敵にこの名前を呼ばれたくはないが、男の格好なのにレティシアの名前を使うわけにはいかず。そのうえスファンがヴァスバード侯爵にこの名前を暴露していたため、大変不本意ながらこの名を使うことにしたのだ。ちなみにヴィンスというのはヴァスバード侯爵の名前だ。
「そう喧嘩腰にならないでくれ。言っただろう? 君に協力すると」
「喧嘩腰にはなってない。ただ機嫌が悪いだけ」
レティシアの屁理屈に、ヴァスバード侯爵は呆れた視線を寄越した。それが馬鹿にしているように感じられて、ますます腹が立った。
「あと一刻ほど進んだら今日の宿を探そう」
「一刻?! まだ日が高いのに、一体何を考えてんだ」
「この上にいるのは強い支配者なんだろう? ならば今のうちに互いのことをよく知る必要がある」
くだらないことを言い始めた男に、レティシアは冷ややかな視線を送った。この男は五大侯爵家の当主で今どき珍しいくらいの頭の堅い、超模範的な貴族軍人。そしてレティシアは血統だけは良い、生い立ちに難がある元凶賊。もう十分に知っているではないか。
「私が言っているのはそういうことではない。表面上のことではなく、内面のことだ」
なに面倒くさいことを言ってるんだ。あんたは女子か。そう思ったが、ふと良いことに気づいた。
「そんなに私のことを知りたいのなら、教えてあげる」
レティシアは不遜な態度で言うと、返事も聞かずに歩き出した。狭い路地を抜けて辿り着いたのは、少し開けた場所、というより断崖絶壁のようなところだ。
「谷底を見てみて。落としはしないから」
ヴァスバード侯爵は怪訝そうな顔をしてから崖の下を覗き、それから振り返って背後にある崖を見上げた。
「……なるほど。ここを階層と表現しているのはこういうことか」
愕然とした様子で呟くヴァスバード侯爵。町の中からではわからないが、端に来ればこの国のことがよくわかる。ここは急斜面に沿って築かれた町だから、こうして端から見ると国の様子が一望できるのだ。
「底の岩場はさすがに日が差さないから岸壁を削ったのか」
「岩場って失礼な。よく見て。底にあるのは岩じゃなくて家だよ、家。人工的な穴が開いてるでしょう?」
レティシアは下を指さした。凝視すれば自然には開かないだろう、四角い穴がところどころ見える。
「あそこは四階層で、むかーし人間が暮らしていた場所。今は市井で生き場所を失った者や力のない者が住み着いているけど」
険しい山脈と海に阻まれているこの国では、隣国へ逃げることができず、未開の地がある北部の山へと逃げ込むしかない。そうして北部の鉱山に入った者の一部が、そこに微かに残る古の力の影響で、知らぬうちにこの四階層へと辿り着くという。
「では上の町はその後の時代に作られたものか」
「そ」
人口が増えるにつれて住むところが足りなくなり、岩肌を削ったり、屋根の上に建物や道を作ったりして居住区を拡大した。そしてそのうちに力がある者が現れると、より陽が入り、土地が豊かな上層階は権力者の住処に、下は力のない者の住処になった。
「もっと上なら貧富の差、権力の差が表よりも一目瞭然なんだけど」
ここだと思ったほど差が見えなかったと、一番上から第五区を見たことのあるレティシアは呟く。一家の一員になった日に、あの人に連れられてこの景色を見たとき、幼いレティシアに衝撃を受けた。これ以上に人間の権力社会を明示しているものはないだろう。
「ここに流れ着いた人間のほとんどは、四階層で一生を終える。ときどきは三階層に上がれる者もいるけど、関門を突破しなきゃいけないから、それなりの力と運が必要になるから、本当に稀だ」
「関門があるのか?」
「四階層との境には。そうしないと治安維持ができないから」
基本的にここには市囲壁というものは存在しないが、四階層と三階層の間には市井でいうところの幕壁がある。四階層の人間が三階層を荒らせないよう、凶賊たちが造ったのだ。関門というだけあって扉もついているが、三階層側からしか開けられない仕様なので、上の階層に行きたかったら、監視の目を盗んでその高い壁を登るしかない。
「扉? 何のために四階層へ行く扉があるんだ?」
「なんのためって、人手不足を補うためとか、市場や店に出すためとかいろいろ。……って、ロクな理由じゃないことくらいわかるでしょう」
急に険しくなった彼の顔を見て、レティシアは呆れ気味に告げる。
「でも悪いことばかりじゃない。壁を自力で乗り越えられない人間にとっては、そこから抜け出せるチャンスでもある」
「攫われて、自分の意思とは無関係に奴隷にされたり、娼婦や愛人にされてもそう言えるか?」
レティシアが「もちろん」と当たり前に答えれば、ヴァスバード侯爵の目がさらに厳しい色を帯びた。薄い緑色の瞳が、そんなのはチャンスじゃないと言っている。
しかし能力があろうと四階層に留まっていたら、凶賊の頭や有力な幹部の目に留まる機会がないまま、あの日の差さない場所で野垂れ死ぬだけ。そう考えると理由はなんであれ、チャンスはチャンスだろう。ちなみに偶然あの人に拾われて、モンテアーノ家の一員になったレティシアは幸運を通り越して奇跡だと思う。
「しかし凶賊の一員になろうと、安泰とはいえないと思うが」
「それは当然。ここは実力社会だから、対価が必須だもの」
凶賊の一員として居続けるにはそれに見合うだけの力が必要だ。例え生まれがよくとも、能力や実力がなければすぐに蹴落とされる。それが強い者だけが生き残る凶賊社会の常識であり、貴族社会との大きな違いだ。
「……厳しい世界だな」
「そう? 能力があろうと、女だから、身分が低いからといって最初から排除している市井よりもよっぽど優しいと思うけど」
レティシアはキッパリと言い切った。女は例え貴族に生まれたとしても結局のところ、男の付属品という扱いであることに変わりはない。その点、第五区は実力さえあれば女だろうと子どもだろうと、上を目指せるのだ。
「これで私のことはわかってくれた? じゃあ早く行きましょう。今日はもう半日も時間をムダにしてるんだから」
レティシアがこの男を連れて来たのは、信用だの互いを知るだの、戯言を言うこの男に、レティシアとは生きている世界が違うということを視覚的に教えるためだ。その目的を果たしたレティシアは、固い表情の男を放置して元来た道を歩きはじめた。
レティシアはシャツ一枚で蹴りの練習をしていることも、見られたこともなんとも思っていなかったりする。気にしているのはヴィンセントだけ。




