60話 予期せぬ邪魔者3
湯浴みを終えたレティシアは、渡されたシャツに袖を通した。そして窓際に置かれた椅子にどっかりと座ると、髪の毛をガシガシ拭きながら部屋を眺めた。
これまで泊まっていたのは安宿だったからベッドしかなかったが、ここは湯浴みのスペースもテーブルもある。軽く見積もっても安宿の六倍はしそうだ。
(……第五区までついて来るなんて、あの男しつこすぎだろう)
今更ながら魔女疑惑を晴らせないままだったことを思い出す。レティシアが第五区へ帰ってきたことを、逃亡と見なしたのかもしれない。敵を捕らえるためには、
つまりレティシアはまんまと敵に逮捕の口実を与えてしまったというわけだ。
厄介なあの男をどう処理するか、眉間に皺を寄せて思考を巡らせていれば、扉が叩かれた。
「入っても構わないか?」
「どうぞ」
返答してすぐ、扉の隙間からヴァスバード侯爵が入ってきた。その手にはなぜか皿と盃がある。
「時間潰している間に食べればよかったのに」
「これは君の食事だ」
「私の?」
レティシアは眉根を寄せる。
「何日もまともな食事を摂っていないだろう? 君の顔を見ればわかる。睡眠は取れていても、頰が少し痩けている」
彼が持っていたのはレーニ麦の粥と蜂蜜酒だ。目の前に置かれたそれを、レティシアは怪訝な目で見た。
「眠り薬の類いは入っていない。信じられないようなら毒味をするが」
「……そこまでしなくて結構」
残金を考えたら節約したいし、もう何日も蜂蜜酒に浸して柔らかくしたパンしか口にしていないので、貰えるものは貰っておこう。
レティシアはほんのり山羊乳の匂いがする粥に手をつける。薄味を通り越してほとんど味がしない粥は、胃のリハビリにピッタリだった。もしも貴族が食べているような香辛料がたっぷり使われた料理だったら、胃が受け付けなかったかもしれない。
「……なに?」
こちらを不躾に見る彼を睨み付ける。
「一つ聞きそびれていたが、監禁中に犯人から傷つけられるようなことはなかったか?」
「ないわ」
正直に言えば大変面倒なことになるので、結果だけ告げる。
「それならよかった。話は食後に聞かせてもらうから、そのつもりで」
「ハイハイ」
ヴァスバード侯爵をあしらうと、レティシアは食事を続けた。そうして食事が終わったあと、予告通りに尋問が始まった。
「劇場を出て旧道を走っていたところを凶賊に襲われて、私だけ拠点に連れて行かれた。正確な場所はわからないけど、北西の方の第四区あたりかしら」
避けて通れないのなら、さっさと終わらせた方がいい。レティシアは当時の状況を端的に話す。それから自分が見た限りの敵の容貌についても教えた。これだけ情報があれば成果としては十分だろう。
「だいたいの状況はわかった。しかしなぜ王都を出たんだ?」
「それは御者と従者の二人が敵に買収されてたのよ。たぶん連中に指示された場所に向かっていたんでしょうけど、連中は最初から二人を使い捨てるつもりだったのよ」
レティシアは二人が殴られて倒れる音は聞いたものの、二人がその後どうなったのかはわからない。まあ凶賊に関わった人間の末路など決まっているが。
「……使用人の二人におかしな様子はあったか? あるいは観劇の前後に誰か不審な者を見かけた、遭遇した記憶は?」
「どっちもないわ」
不審者と会っていれば多分気づいているし、薬を使われていれば、何らかの症状が出ているから違和感を感じただろう。馬車を走らせている最中も二人とも平常だったと告げれば、彼の気難しそうな顔がさらに気難しくなった。
「何か問題があるみたいね?」
「少々不可解な状況だと思ってな」
どういうことかと問えば、
「使用人の二人は無事だ。君がブレスレッドを落とした場所から離れた所で保護している」
「意外だわ」
「ただし彼らは王都から出てはいないと言っている。それと二人とも劇場を出てからの記憶がないようだ」
「記憶がない?」
「ああ。正確には御者は劇場に入ったときから、従者は劇場を出てからの記憶が曖昧らしい。王都を出たことも、凶賊に襲撃されたことも覚えていなかった。頭を殴られていたとしても、劇場に入る前のことはしっかり覚えているというのに。だから二人が何らかの薬物を使われた可能性を考えていたのだが……君の証言を聞く限り、その線もなさそうだと思ったんだ」
今度はレティシアは眉を顰めた。あのとき何か見落としていたのか。レティシアは頬杖をついて記憶を辿り始め、けれど間もなく強い視線に気づいた。
「今度はなに?」
レティシアはぶっきら棒に問う。
「先ほど傷つけられるようなことはなかったと言わなかったか?」
「そうよ?」
「ではその傷はなんだ?」
傷と言われて、彼の見ている辺りに視線を下ろせば、狡猾男にやられたときの傷跡の一部が目に入った。シャツの襟ぐりが大きく、さらに下を向いていたせいで、胸元のそれが見えたらしい。
「その傷は刃物で付けられたものにしか見えないが?」
彼はそれしか言わなかったが、その顔には「こんなところに傷ができる状況は一つしかないだろう」と書いてある。
「ああ、奴らの中にヤることしか頭にない馬鹿がいたのよ。未遂よ、未遂」
隠しても追求してくるだろうから、今日の天気の話をするくらい軽い口調で答えた。途端にヴァスバード侯爵は椅子から立ち上がった。その表情はさらに険しくなっている。
「なぜそれを言わない」
「言う必要ある? されてないわけだし。傷もドレスを破られたついでに薄皮一枚切られただけで、もう治りかけだし」
「そういう問題ではないだろう。確かに体は無事だったかもしれないが、例え一瞬でもそんな状態に陥ったのだ。心が傷つかないはずがない」
レティシアにとっては鬱陶しい説教ではあったが、同時に少しばかり関心していた。男という生き物は女には人格がないと考えていると思っていたからだ。
「こんなことじゃ傷つきはしないわよ。もちろん気持ち悪いし、殺したくなるわ。でもそんなの、訳ありの身なら第五区じゃなくてもよくあること。いちいち気にしていたら生きてけないわよ」
市井で暮らしていた頃からそういう下心を持った男たちを見てきてたし、時々は母ではなく自分が狙われたりもした。だからショックを受けている暇などなかったのだ。誰も助けてはくれない以上、自分と母の身を守らねばならなかったから。
レティシアは青紫色の瞳でヴァスバード侯爵を見据える。
「それに私にとって危険な人間はね、女にも権力にも興味のない男なのよ」
下心のある男は幾らでも使いようがある。けれどそうでない男は邪魔にしかならないのだ。例えばこの男のように。
レティシアの言葉に彼はなんともいえない表情を浮かべ、それから再び椅子に腰かけた。
「これだけは覚えておいてほしいが、私は君の敵ではない」
まるで子どもを諭すようにヴァスバード侯爵は告げる。
「私がこちらに来た目的は君の保護だ。君の本当の生い立ちについては、ラインベール公爵とスファンから聞いている」
彼の口から飛び出した聞き慣れた名前に、レティシアはやっぱりと納得した。いくらレティシアを追って来たとしても、複雑怪奇なこの土地をこの男が一人で動けるはずがない。そしてリーズの町でタイミングよく現れた国営軍。それを踏まえると、直前までレティシアとやり取りしていたスファンが手引きしたとしか考えられなかったのだ。
「お父君に色々思うところはあるだろうが、それでも君を無事に王都へ連れて帰ることが私の務めだ」
見た目通り噂通りのお堅い言葉に、この男は本当に生まれながらの軍人だと思う。
「生い立ちを知ってるなら話は早いわ。私はただ故郷に帰ってきただけだから、ご心配なく王都へ戻ってちょうだい」
「君にとってあちらでの生活は不本意なものだったかもしれない。だが君のことを大事に思っている人は市井にも大勢いる。ラインベール公爵もハインカルツェ公爵も、ファンルドー男爵も、使用人も」
「義理を返すべき人には返し終えたわ」
表側の人間で義理のある相手はフェンゼン家の面々だけで、それもローレンスの養子になったことで義理は果たしている。だからレティシアは取りつく島も藁ない態度を貫く。
「スファンは君が王都で暮らすことを望んでいたが?」
何を思ったのか、ヴァスバード侯爵はとんちんかんなことを言い出した。
「そもそもスファンが我々と手を組んだのは、君の身を案じてのことだ。彼は君が誘拐されて間もなく、邸に偵察に来た。君の身に危険が及んでいるのではないかと」
レティシアは眉を顰める。凶賊は自分の身は自分で守るのが鉄則だし、なによりレティシアは一家から追放された身。そんなレティシアのために、軍に掴まる危険を犯すことは絶対しない。
「今回だけではない。彼は君がファンルドー男爵に引き取られて以降も、定期的に君の様子を見に行っていたらしい。君が市井でつつがなく暮らしているか確認するために」
「そんな作り話で私を釣れるとでも思って?」
「例え仲間ではなくなっても、彼個人が君を嫌いになったわけではない。君が元仲間の身を案じるように、君のことが心配だったようだ」
レティシアはふうんと、半目でヴァスバード侯爵を見た。スファンがそういう性格でないことをレティシアはよく知っている。だからこれは事実を盛り込みながら脚色したヴァスバード侯爵の作り話だと理解した。
「君の旧友たちの状況については、私が責任を持って確認する。だから君は邸へ戻りなさい」
「敵である軍人に何を任せろと? 私がそんな馬鹿な話を信じるとで思っているのなら、舐められたものね」
レティシアは口元を歪め、嘲笑する。この男に従えば家族全員がお縄に掛けられるのは目に見えている。凶賊は国家の脅威。その敵を一網打尽できるこのチャンスを、軍がみすみす見逃すはずがない。それにだ。
「男の言葉に信用も価値も何もないわ」
これはレティシアが身を持って実感したことだ。身分や役職は関係ない。
「君が危惧しているようなことは断じてない。今後、過去の理由から君の身が拘束されたり、不利益を被ることはないし、モンテアーノ家の身の安全も保障する」
「口約束なんて詐欺師でも使わないわよ? だいたい凶賊の一員だった私を保護してどうするつもり? 尋問でもするの?」
今は違うとはいえ、レティシアは長年、国の敵である凶賊だったのだ。そんなレティシアを放置しておくはずがない。どうせ一生幽閉か、王家内の不良物件に嫁がせる、あるいは他国の王家へ、嫁入りという名の国流しになるだろう。ちなみにこの三択なら国流し希望だ。
「ああ、そういえば私には魔女の疑惑もかけられていたわね」
「魔女? 何か勘違いをしているようだが、私は君を魔女だと疑ったことはない」
「そう言うわりに、上司を引き連れて邸に来たじゃない?」
「あれは君が第五区の人間と繋がっていると疑っていたから、探りを入れたかったんだ」
とってつけたような答えに訝しんでいれば、ヴァスバード侯爵はしばらく考え込み、それから周囲を経過ししながら口を開いた。
「極秘事項ではあるが、君は関係者だから話してもいいだろう。君は間違いなく魔女に狙われる立場にいるのだから」




