幕間
ああ、やっぱり。それが母を見て一番最初に思ったことだった。
あの人に助けられてから二日後。母はようやく意識を取り戻した。けれど目覚めた母はもう、母ではなくなってしまった。レティシアが誰なのか、いや、娘がいたこと自体忘れてしまっていたのだ。
「あー、なんというか……今はちょっと記憶が混乱してるだけだ。決してお前のことを忘れたわけじゃない」
あの人はそう声を掛けてくれた。たぶんレティシアが沈黙しているのを、ショックを受けていると思ったのだろう。
「気にしてない。いつものことだから」
「いつものこと?」
「……お母さまが見てたのは私じゃなくて『お父さま』だった」
母に「あなたはお父さまにそっくり」と言われる度に感じていた。母にとってレティシアは『お父さま』の代わりなのではないかと。だからレティシアを覚えていなかった母に対して思ったことは、「悲しい」とか「どうして」ではなく、「やっぱり」だった。やはり最初から母の中に「レティシア」は存在していなかったのだ。それがただ明確になっただけ。だから今さらショックも何もなかった。
「……一人でよく頑張ったな」
不意に頭に手が置かれ、レティシアは顔を上げた。勘違いでなければ慰められているような気がしたからだ。
「お前は母を恨んでいるか?」
「……わからない」
恨んでいないとも、恨んでいるとも言えなかった。昔はいろんな感情があった気がするけれど、生きることに必死で忘れてしまった。
「……許さなくていい。でも母を恨むな。お前の母は母なりに努力したんだ。でも世の中を生き抜く強かさも知識も、持っていなかった。だからお前に夫の姿を重ねなければ、心が保たなかったんだろう」
心が保たない。その通りだと思った。あんな場所で生きるには母の心は綺麗すぎたのだ。
「でもな、これは母のせいじゃない。長い間、鳥かごの中でしか生かされてこなかったから、そういう生き方しかできなかったんだ」
「そう……」
レティシアはただ頷いた。どういうことか理解したわけでも、母に同情したわけでもない。これから母ではなくなった母と共にどう生きていけばいいのか、それを考えるのに必死だった。
「……お前は強くなりたいか?」
「なりたい」
しばらくの沈黙の後、あの人が突然口にした言葉に、レティシアははっきりと答えた。強くなりたかった。傲慢な男たちを打ち負かす力が欲しかった。
あの人はそうかと呟くと、しゃがんでレティシアと視線を合わせた。初めて間近に見るあの人の顔。猛獣を思わせる赤味を帯びたその強い目のせいか、初めて会った時は怖く感じたけれど、こうして見ると凛とした強さだと思った。
「レティシア。今日でその名を捨てろ」
「え?」
「今日からここで、新しい名で生きるんだ」
レティシアはただ目を丸くしてあの人を見つめた。
「今日を生きるのに必要や飯も家も安全も、全てお前に与える。だからお前は明日を生きる力をつけろ」
「あすを生きる力?」
首を傾げれば、あの人はその日暮らしではなく、未来のことを考えて生きる力だと言った。
「無知のまま生かしてくれるほど、世界も人間も優しくはない。だから俺はこれからお前に知識を与える。身を守るには武だけでなく、知識が必要だからだ。
良いも悪いも全てを知れ。そして自分で見極める目と判断する力を養うんだ。この理不尽な世界を生き抜くために」
子どもにとっては理解するに非常に難しい言葉。けれどその言葉は幼いレティシアの心に深く響いた。他人は信用できなくても、この人なら信用できる。この人はレティシアと母に手を差し伸べてくれた、唯一の大人なのだから。
レティシアは大きく頷き、彼を真っ直ぐに見据えた。
私は一生この人に付いていく。この人のためなら喜んで死のう。
モンテアーノ家に迎え入れられることになったその日、レティシアはそう誓った。例え一家の人間ではなくなったとしても。
レティシアが5、6歳頃の話です




