42話 誘拐事件1
「楽しんでおいで」
返事をすることも、振り返ることもない娘の背中をローレンスは見送る。レティシアが気落ちしているのは知っていたけれど、ローレンスが側にいるのを気にしないほどの落ち込みように胸が痛くなる。
「……少しは慰めになってくれればいいんだけど」
「今はいなくなった直後ですから難しいでしょうが、時が経てば、お嬢様のお気持ちも落ち着きましょう」
五日前、可愛がっていた鳥が不注意で飛んで行ってしまってから、レティシアは毎日のように庭や周辺を探している。飼っていたのはほんの二日とちょっとだが、本当に可愛がっていたらしい。だから少しは気を紛らわせることができればと、マクシミリアンを通して娘に観劇を勧めた。娘を元気付けたいという気持ちと、嘘を吐いた懺悔の気持ちを込めて。
「……僕は卑怯だな。戻ってこないとわかっているのに、淡い期待を抱かせて」
ヴァスバード侯爵から少々物騒な話を聞いていたローレンスにとって、鳥がいなくなったのは好都合だった。鳥が戻ってくるかも知れないとレティシアに仄めかし、領地へ戻る予定を引き延ばさせたのだ。
しかし観劇に行っている間に鳥が戻ってくるかも知れないと、侍女に留守番ならぬ鳥番を頼んでいた娘の心情を思うと、罪悪感がある。
「いえ、お嬢様をことを思えばこれでよかったのです」
マクシミリアンはきっぱりと言い切る。
「お嬢様の安全を守ることは、お嬢様の幸せのためには必要です。それに傷心のときに戻ってこないと告げる方が酷でしょう。お嬢様の気持ちが上向くまで、そっと見守るのが一番です」
ローレンスは頷く。自分の役目はレティシアが幸せになれるよう、その手助けをすることだ。例え恨まれてでも。
◆◆◆
華やかな衣装を身に纏った役者たちに、舞台を盛り上げる音楽。レティシアは眼下で繰り広げられる大げさな劇を見ることなく、考えを巡らせていた。
スファンに手紙を出してから五日。向こうの状況はわからない。内部反乱とその次の企みが起きているのだとしたら、今頃その対処に追われているのだろうと思う。レティシアと同じように。
あのメモは他人には知られてはならない密書だった。そんなものが紛失したとなれば、敵は血眼になってメモを探すはずだ。既に小太りの男を問い詰めて、紛失した可能性がある場所、疑わしい人物を把握していることだろう。
そうなるとレティシアは特定されてる可能性が高い。ぶつかったという出来事は記憶に残るからだ。そしてあの日のレティシアの格好はともかく、髪が問題だった。
(完全に帽子で隠していればなぁ)
義姉と一緒に歩くために帽子は今流行りのもので、それに合わせて結った後ろ髪が出ていたのだ。ぶつかった時に帽子が落ちることはなかったが、もしもあの小太りの男がプラチナブロンドを見ていたとしたら、髪色からすぐにレティシアに辿り着くだろう。
(たぶん、私を尋問しに来るだろうな。軍に手渡したか確認するために)
表の人間の力を借りてネービス家で下克上を起こした凶賊どもだ。疑わしければ身分など関係なくやってくるだろう。そう考えて領地には戻らず、より警備が厳重な王都に留まることにしたのだ。
そしてこの五日間、邸の周辺の様子を窺っていたのだが、不審者はいなかった。王都の一等地だから警備が厳しくて近寄れないだけなのか、それとも疑わしい人物にレティシアは入っていないのか。邸の外の様子がわからずに悶々としていたので、マクシミリアンから観劇を勧められたのは渡りに船だった。
劇場に行くまでの間、レティシアは周囲を警戒していたが、不審者の姿も、誰かに付けられている形跡もなかった。とはいえ安心はできない。
(……だいたい何を思って表側の人間は一家内の内乱に介入したんだ)
もしレティシアの予想通り、五老院に成り代わろうというのなら、第五区を、凶賊を手中に納めようとしているも同然だ。
他国との戦争がないこの国において、戦力を手にする。これが意味することはーー。
嫌な予感が頭から離れず、レティシアは無意識にあの人からもらったバングルに触れた。第五区で何も起きていなければいい。
言い知れぬ不安を抱いていると、突然割れんばかりの拍手が鳴り響いた。どうやら歌劇の前半が終わったらしい。
「……エドモン、帰りましょう」
レティシアは席を立った。終わりまでいれば日が暮れてしまう。もしレティシアが気づかないだけで敵に尾行られているかも知れない。念を入れるなら人の目が多い、明るいうちに一等地に戻った方が賢明なのだ。
「小鳥が戻ってきているかも知れないわ」
「畏まりました」
それっぽい理由を付けると、レティシアは劇場を後にした。邸の外の様子はわかったので、今日の目的は、果たしたと言えるだろう。こんなのは情報収集でも偵察でも何でもないのだが、お嬢様にはこれが限界なので仕方ない。
(制限ばっかりで、できることが無さすぎるな)
自由に動き回れないし、武器になるものすら持たせてもらえない。ナイフ一本でもあれば、もう少しやりようがあるというのに。
小さなため息と共に窓を見たレティシアは、外の景色がおかしいことに気づいた。王都の中心の方にある邸に向かっているはずなのに、なぜか外側にある第一環状囲壁が見える。レティシアは窓に顔をくっつけ、前方の御者の背を見た。東門が迫ってきているが、御者に慌てた様子はない。
(エドモンは?!)
今度は車体後方の従者席にいるエドモンを見るが、彼の様子も至って普通だ。
(どういうこと?)
レティシアは困惑する。二人とも平常だということは、歌劇が終わったら領地に行くように言われているのだろうか。長距離用の馬車ではないのにと疑問を抱く。
(マクシミリアンから何も聞いていないけど、私が邸にいることに何か不具合でもあったのか?)
やましいことしかないがために、判断を鈍らせている間にも、馬車は内側の第一環状囲壁を過ぎ、外側の第ニ環状囲壁からも出てしまった。
いつもの道だから、やはり領地に戻るのだろう。そう思い込んだのが間違いだった。半刻も経たぬうちに東へ伸びる主要道路を外れると、あれよあれよという間に北の方角に伸びる脇道へと入っていったのだ。道の整備が不十分らしく、車体がガタンガタンと激しく揺れる。
(やっぱりおかしい!)
こんな道を走るはずがない。御者に声を掛けようとレティシアが窓に手を掛けたとき、馬車の速度が遅くなり、そして止まった。どうしたと窓に手を掛けた瞬間、全身に鳥肌が立った。この感覚。間違いなく、誰かに狙われている。
(囲まれたか……!)
林の中から窓の馬車に近づいてくる複数の人の姿を捉えた。
(そういうことか)
まさか御者とエドモンが敵に買収されていたとは考えていなかった。迂闊だったと舌打ちしたのも束の間、車体の前後で鈍い音が何度か聞こえた。
(殴り倒れされたか?)
見えないのでわからないが、音から推測する。使い捨てられたかと考えていれば扉が開き、そこそこの身なりをした男が乗り込んできた。ただし鋭い眼光なので、表側の人間ではないことは確実だ。
「動くな。声も上げるな」
男はレティシアに短刀を突き付け、抑揚のない低い声で脅す。レティシアは目を大きく見開き、全身を小刻みに震わせる。
「そのまま大人しく座れ」
男はさらに短刀を突きつけて、レティシアを座席の奥に追いやると隣に座った。それと同時に扉が閉められ、再び馬車が動き始めた。
(馬車ジャックとはまた大胆な)
まさかこう来るとは思わなかった。念のために侍女には留守番してもらったのだが、正解だったようだ。
(どこで馬車を換えるつもり?)
怯えきったふりをしながら、レティシアは馬車ジャック犯どもの次の動きを考える。この馬車は貴族が日常で使う型なので、こんな道を走り続けていれば目立ってしまうし、何より長距離は移動できないので、別の馬車を用意しているはずだ。
(……念のために軍を使うか)
レティシアはバングルと一緒に着けていた、簡素なビーズのブレスレットをそっと外した。前に義姉の贈り物を探していたときに買ったものだ。自分だけではどうにもならないかも知れない場合、これが多少なりともレティシアの居所を掴む手掛かりになると期待して。




