第9話:二人の約束
夜の筑波山は、昼間の賑わいが嘘のように静まり返っていた。
ふもとの小さな自販機の前。オレンジ色の街灯の下で、駆と佐藤は冷たい缶ジュースを片手に並んで座っていた。
佐藤の足元には、相変わらず年季の入ったママチャリが置かれている。しかし、そのクランクの周りには、泥に混ざって、最近熱心に走り込んでいることを示す新しいチェーンオイルの輝きがあった。
「へえ……。おっさんたちを平地ですり潰したのか。見たかったな、それ」
佐藤はパインジュースを一口飲むと、自分のことのように嬉しそうに笑った。
「すり潰したっていうか……俺はただ、梶さんに言われた通りに、一定のペースで前を引き続けただけなんだけどさ」
駆はネイビーの魔改造クロモリを見つめながら答えた。
「でも、後ろのおっさんたちが『風が全然来ねえ』って驚いてるのを見た時、初めて思ったんだ。俺、部活はクビになったけど、この自転車と、まだ戦えるかもしれないって」
「当たり前だろ」
佐藤は缶を自販機のゴミ箱に放り投げると、真剣な目で駆を見た。
「俺は信じてたよ。駆がバイトであれだけ死に物狂いで貯めた十二万だ。それがただの鉄屑で終わるわけないってな。一ノ瀬の奴、今に見てろよって感じだわ」
夜の冷たい筑波颪が、二人のジャージを揺らす。駆はその風の冷たさを心地よく感じながら、ふと、ずっと胸の奥に仕舞い込んでいた疑問を口にした。
「なぁ、佐藤。佐藤は高校で部活に入らなかったけど、最近、夜に一人でめちゃくちゃ走り込んでるだろ。ショップのローラー台のデータでも、佐藤の走行距離がどんどん増えてるって、梶さんが言ってたぞ」
佐藤は一瞬気まずそうに頭を掻いたが、街灯を見上げたまま、ぽつりぽつりと話し始めた。
「……まぁな。俺さ、駆みたいにプロになりたいとか、世界に行きたいとか、そういう大それた夢があるわけじゃないんだ。でもさ、駆が部活をクビになって、それでも諦めずにショップで泥まみれになって走ってる姿を見てたら……俺だけ何もせずに大人になるのが、なんか猛烈に悔しくなったんだよ」
佐藤の目が、オレンジ色の光を反射して熱く輝いた。
「俺は普通に卒業して、普通に働くと思う。だけど、趣味でもいいから、本気で自転車をやってみようと思うんだ。例えばさ、日本で一番過酷な市民レースがあるだろ。『ツール・ド・おきなわ』の市民レースとか……。いつか、プロのトップレーサーたちがガチで殴り合う全日本選手権に、アマチュアレーサーとして出場して、勝負してみたいんだ」
全日本選手権。それは、国内のプロ登録選手でも出走者の大半が制限時間内に足切り(強制リタイア)を喰らい完走すらできない、アマチュアにとってはエベレストの頂点に挑むような無謀な夢だった。平日は遅くまで働いて、帰宅後に一~二時間ローラー台を回すような生活で簡単に届くような場所ではない。
しかし、駆には佐藤のその言葉が、決して不可能な冗談には聞こえなかった。毎晩、暗い部屋の片隅で、汗の海を作りながらペダルを回し続けている親友の「執念」を、誰よりも知っていたからだ。
「……いいな、それ」
駆は立ち上がり、魔改造クロモリのドロップハンドルを強く握りしめた。
「佐藤が全日本を目指すなら、俺は世界の最高峰グランツールで『人間機関車』になってみせる。お互い、誰もついてこられないくらいのバカになろうぜ」
「おう。約束な、駆」
佐藤が拳を突き出し、駆がそこに自分の拳をコツンとぶつけた。
エリートの道(王道)を往くライバルの一ノ瀬。
厳しい現実の中で、限られた時間に命を懸ける親友の佐藤。
そして、己の弱さを受け入れ、最強の盾となる道を選んだ駆。
夜の筑波山の静寂の中、交わされた二人の約束。それが、数年後の全日本選手権という過酷な交差点で、二人の運命を激しく激突させる火種になることを、彼らはまだ知らない。
「よし、じゃあ店に戻って、梶さんの特製インターバルメニューやるか!」
「うげっ、まだやるのかよ!? ママチャリの俺の身にもなれって!」
笑い声を響かせながら、二人の少年は夜の暗闇へとペダルを踏み出した。




