第8話:風を遮る技術
「下りに入ったら、お前が先頭だ。死ぬ気でハンドルを抑え込め」
不動峠の頂上。梶オーナーの指示に、変態大人たちが一瞬だけ目を剥いた。登りで最下位だったド素人の高校生を、時速七十キロメートルを超えるダウンヒルの先頭に立たせるというのだ。
だが、岩田たちはニヤリと笑い、駆に進路を譲った。
「ボウズ、ブレーキのタイミングを間違えるなよ。後ろの俺たちが全員死ぬからな」
駆はごくりと唾を飲み込み、魔改造クロモリのドロップハンドルの最下部――下ハンドルを深く握りしめた。
下り坂が始まった。
一瞬にして、重力が駆の背中を強烈に押し出す。十・五キログラムという重い鉄の車体と、駆の体幹の重さが、下り坂においては圧倒的な「加速のエネルギー」へと変換された。
軽いカーボンバイクの大人たちが後ろで軽くブレーキを当てる中、駆のクロモリは路面に吸い付くような異様な安定感を見せながら、ぐんぐんと加速していく。
「お……おおおっ!」
時速六十キロ、六十五キロ、七十キロ。
景色が猛烈なスピードで後ろへと吹き飛んでいく。恐怖で身体が強張りそうになるが、駆は梶の言葉を思い出した。
『顎を引け。風の逃げ道を作れ。車体を信じろ』
駆はサドルから腰をわずかに浮かせ、トップチューブに顎がつきそうなほど上体を伏せる「エアロフォーム」をとった。型落ちのディープリムホイールが、独特の風切り音を響かせて滑らかに回り続ける。無駄な摩擦抵抗をすべて削ぎ落とした駆動系が、駆の質量を無限の推進力に変えていた。
ヘアピンカーブ。駆はイン側に膝を突き出し、体幹の力だけで重戦車をねじ伏せるように倒し込んだ。鉄のフレームが美しく「しなり」、路面をきっちりと捉えて一発で立ち上がる。
「嘘だろ……あいつ、下りで一回もブレーキ当ててねえぞ!」
後ろを追う岩田の驚愕の叫びが、風の向こうへ消えた。
峠を一気に駆け下り、コースは再び、吹き晒しの霞ヶ浦沿いの平坦ストレートへと突入した。
正面からは、狂暴な「筑波颪」が容赦なく吹き付けてくる。普通なら、誰もが先頭を走りたくない絶望的な向かい風。
だが、駆は冷静だった。
「ここからだ……! 俺の、戦場は!」
駆は下ハンドルを握ったまま、上半身を水平に保ち、一定の狂ったようなペダルの回転を刻み始めた。
時速は四十キロメートルから衰えない。それどころか、四十二キロ、四十五キロへと上がっていく。重いクロモリは一度スピードに乗ってしまえば、その慣性によって速度が落ちにくい。駆は自分の心臓のワット数を頭の中で冷徹に計算し、限界ギリギリの出力を正確に維持し続けた。
駆の後ろにぴったりと張り付いた岩田たちは、息を呑んでいた。
「なんだ……この風除けは……!」
駆のぶ厚い体幹と、深く伏せられたフォーム。その背中の真後ろには、一ミリの風も存在しなかった。まるで、巨大な新幹線(人間機関車)の真後ろを走っているかのように、大人たちの受ける風圧が完全に消失していた。
風をすべて一人で切り裂き、後ろの仲間を無傷で守る。一ミリの風すら遮る、ルーラーとしての職人技の片鱗が、そこに完成しつつあった。
そのまま、駆は時速四十五キロメートルを維持して十キロメートルのストレートを牽引し続けた。
目的地のショップ裏に到着した瞬間、駆は自転車ごと崩れ落ち、芝生の上で激しく喘いだ。
だが、後ろから降りてきた変態大人たちの顔からは、さっきまでの余裕が完全に消え失せていた。岩田は信じられないものを見る目で、駆の魔改造クロモリを見つめた。
「オーナー……こいつはバケモノだ。登りで脚を使い切った俺たちの前で、あの向かい風を時速四十五キロで引き続けやがった。あいつの後ろ、本当に一ミリも風が来ねえんだ」
梶は満足そうにタバコの煙を吐き出し、倒れ込む駆を見下ろした。
「分かったか、駆。お前は山じゃ勝てねえ。だが、お前が作ったあの影の中なら、どんな凡人でもプロの速度で走れる。お前はチームを勝たせる、最強の盾だ」
駆は空を見上げ、泥まみれの顔で小さく笑った。
部活をクビになった鉄屑が、大人たちを戦慄させた。その喜びが、全身の痛みを一瞬で吹き飛ばしていった。




