第10話:初陣
十一月。ロードレースのシーズンを締めくくる、ホビーレーサーの甲子園が開幕した。
早朝のパドックは、独特の熱気と緊張感、そして高級なスポーツバルムの匂いに包まれていた。各地から集まった数百人のアマチュアレーサーたちが、ローラー台で激しくペダルを回し、鋭い眼光を放っている。
駆が出場するのは、実力者がひしめき合うホビーレースの最高峰「クラスA」。距離は五十キロメートル、アップダウンの激しい周回コースだ。
「おい、駆。緊張で足がガチガチだぞ」
岩田が豪快に笑いながら、駆の肩を叩いた。梶オーナーはハイエースの荷台に腰掛け、いつも通りタバコを咥えながら駆たちの機材を最終チェックしている。
駆の魔改造クロモリは、型落ちのデュラエースが冷たい朝日に鈍く輝き、完全に戦う準備を終えていた。
「オーナー、今日の作戦は?」
駆が恐る恐る尋ねると、梶は煙を吐き出し、ニヤリと口の端を吊り上げた。
「作戦もクソもねえ。お前はチームの『大砲』だ。中盤、必ず岩田たちが前に出る。お前はその真後ろで一滴も脚を使うな。そして後半の平坦ストレートに入ったら、お前が先頭に立って集団を最高速度でぶち壊せ」
「……はい!」
その時、パドックの通路を、一糸乱れぬ完璧なトレイン(集団)で進む一団があった。
揃いの鮮やかなチームジャージ。全員が最新の百万円超えのカーボンバイク。――城南高校自転車部だ。
先頭を走る一ノ瀬が、駆の姿に気づき、すれ違いざまにピタリと自転車を止めた。
「あれ、新堂くん? 諦めてなかったんだ。でも、そんな化石みたいな鉄屑でクラスAに出るなんて、自殺希望かなにか?」
一ノ瀬の目は、相変わらず冷徹で、駆を完璧に見下していた。
「今日のコースには短いけど激坂がある。君みたいな重い自転車じゃ、最初の周回で千切れて終わりだよ。僕たちの邪魔だけはしないでね」
一ノ瀬たちは、そのまま前方のアドバンテージがあるシード枠へと進んでいった。
駆はハンドルを強く握りしめた。悔しさはあったが、不思議と震えはなかった。半年間、梶オーナーと変態大人たちに揉まれ、霞ヶ浦の暴風の中で培ってきた「自分の限界値」への絶対的な信頼があったからだ。
『まもなく、クラスAスタートします。選手はラインに並んでください』
アナウンスが響き、駆は岩田たちと共に、二百人を超える巨大な集団の後方に位置取った。
全員がクリート(ビンディングペダル)をはめる金属音が、ガシャガシャと不気味に響き渡る。
パーン、と、号砲が鳴り響いた。
直後、駆の鼓膜を襲ったのは、百台以上ものロードバイクが一斉に加速する、地響きのような爆音だった。
アマチュア最高峰のレース。それは高校の部活の練習とは、桁違いの張りつめた空間だった。前後左右、数センチメートルの距離を、時速四十キロメートルオーバーの塊がうねるように進んでいく。一瞬の斜行、一瞬のブレーキが、数十人を巻き込む大落車に繋がる極限の恐怖。
「下を向くな駆! 岩田のケツだけを見てろ!」
すぐ横を走る公務員の先輩が叫ぶ。
駆は顎を引き、岩田の背中の真後ろに魔改造クロモリを滑り込ませた。岩田の大きな身体が風の壁を完璧に砕いてくれている。駆のメーターは時速四十五キロメートルを示していたが、受ける風圧は驚くほど軽かった。
しかし、コースは一本目の「上り坂」へと突入する。
一ノ瀬の予言通り、軽量カーボンのエリートたちが一斉にダンシングで加速し、集団のスピードがさらに跳ね上がった。
激しいポジション争い。削られる体力。重い鉄のフレームが、再び駆の足に重くのしかかる。
新堂駆の人生初のリアルレース。その本当の地獄が、ついに幕を開けた。




