第5話:弱者のための使い道
「サイクルショップ・カジ」は、霞ヶ浦から少し外れた旧道沿いに、ひっそりと佇んでいた。
看板は色褪せ、ガラス戸越しに見える店内は、お世辞にも綺麗とは言えない。高級な最新ロードバイクが華やかにディスプレイされているわけでもなく、壁には古い工具や、油にまみれた出所不明の金属パーツ、そして色褪せた海外のレースポスターが所狭しと張り巡らされていた。
それは店というよりも、どこか職人の「アジト」のような雰囲気を醸し出している。
「おい、そこ座れ」
店奥の作業場で、梶は古びたパイプ椅子を顎で指した。
駆は緊張した面持ちで腰を下ろす。隣には、先ほど梶の軽トラックの荷台に乗せられて運ばれてきた、自分のネイビーのクロモリバイクが立てかけられていた。
梶は缶コーヒーを一本、駆に放り投げると、自身も作業机に腰掛けてタバコに火をつけた。紫煙が薄暗い店内にゆっくりと広がっていく。
「駆、まずお前に現実を教えてやる。お前をクビにした城南高校の顧問やキャプテンの言うことは、まぁ正しい」
いきなりの冷徹な言葉に、駆は胸を突かれたように身を硬くした。やはり、この人も自分を否定するのだろうか。
「自転車レースってのはな、『物理法則』と『数値』がすべてだ」
梶は作業机の上の裏紙に、手慣れた手つきでグラフを書き殴り始めた。
「山で勝つには、何よりも『パワーウェイトレシオ』――つまり、体重に対する出力の高さが全てだ。一ノ瀬とかいうカーボン坊主や純粋なクライマーは、体重が軽くて瞬発力がある。対してお前は、その重い鉄の自転車に乗って、無駄な贅肉を抱えて登ろうとしてる。物理的に勝てるわけがねえ」
「……はい」
「じゃあ平地のスプリントはどうか。ゴール前で時速七十キロを超える爆発力を生むには、生まれ持った『速筋(白筋)』の割合が全てだ。これは努力じゃどうにもならねえ天性の才能だ。お前にはそれもない。山もダメ、スプリントもダメ。普通に走れば、お前はただの器用貧乏、いや、不器用貧乏の足手まといだ」
コーヒー缶を握る駆の手が、悔しさで微かに震える。分かっていた。分かっていたけれど、こうして目の前で論理的に数字で突きつけられると、涙が出そうになる。
「だけどな、駆」
梶はタバコを灰皿に押し付けると、駆の目を真っ直ぐに見据えた。
「ロードレースは、一人で走る個人競技じゃねえ。チームの誰か一人を一番にゴールさせるための、最高にドロドロした『団体競技』だ。そしてお前のような、山もスプリントも弱い奴にしかできない、至高の仕事ってやつが存在する」
「俺にしか……できない仕事?」
「そうだ。それが『ルーラー(独走屋)』。チームの刃を最後の瞬間まで無傷で運ぶための、動く盾(機関車)だ」
機関車。駆の脳裏に、あの三月の夜に観たツール・ド・フランスの映像が鮮烈に蘇った。集団の先頭で風を受け続け、ボロボロになって脱落していった、あの地味な選手の姿だ。
「いいか、時速四十キロで走る時、空気抵抗の九割は『風』だ。先頭を走る奴は、後ろを走る奴の何倍ものエネルギーを消費させられる。つまり、どれだけ強いクライマーやスプリンターでも、最初から最後まで一人で風を受け続ければ、勝負どころに達する前に脚が売り切れて終了する」
梶は駆のクロモリバイクのトップチューブをバン、と叩いた。
「そこで、お前の出番だ。お前は重い鉄の自転車を無理やり踏み続けたせいで、知らず知らずのうちに『一定の高いパワーを、維持し続ける筋肉』のベースが出来上がってる。
お前が先頭に立って風の壁を切り裂き、後ろの仲間を無傷で守り続けるんだ。お前がボロボロになってリタイアする時、お前の背中から飛び出した仲間が表彰台の頂点に立つ。……これが、ロードレースの半分を支配する『アシスト』の本質だ」
駆の目から、ウロコがボロボロと落ちていくようだった。
自分が勝つためではない。仲間を勝たせるために、自らの肉体を極限まで使い捨てる。その地味で、残酷で、しかし言葉にできないほど熱い役割が、この世界には確かに存在するのだ。
「自分の弱さを受け入れろ、駆。勝とうとするな。役に立つために、誰よりも冷徹に風を計算する『頭脳』を磨け。それさえできれば、お前は最新カーボンのボンボンエリートどもを、平地で一網打尽にすり潰せるバケモノになれる」
「俺……やります」
駆はパイプ椅子から立ち上がり、梶に向かって深く頭を下げた。
「俺を、役に立てるルーラーにしてください。あいつらに、鉄屑の走りを見せてやりたいんです」
梶は満足そうに口の端を吊り上げた。
「よし。じゃあまずは、その拗ねちまった鉄屑の『魔改造』から始めるか。金はねえんだろ? うちのゴミ溜め(ジャンク品置き場)から、使えそうなパーツを拾い集めてこい。お前が自分で組むんだよ」
こうして、新堂駆の「雑草ショップ」での地獄の鍛錬の日々が、幕を開けたのだった。




