第4話:泣き虫の激走
ごう、と遮るもののない湖畔に、容赦のない「筑波颪」が吹き荒れる。
時速三十五キロメートル。それは最新のカーボンバイクに乗る一ノ瀬たちにとっては、涼しい顔で維持できる「ただの練習ペース」かもしれない。だが、十・五キログラムの重い鉄屑にしがみつく駆にとっては、心臓を物理的に削り取るようなデスゾーンだった。
涙と汗がぐちゃぐちゃに混ざり合って顔を濡らす。肺が酸素を拒絶して悲鳴を上げている。それでも、駆はペダルを踏む足を止めなかった。
その時だった。
風を切り裂く重厚な駆動音が、背後から急速に迫ってきた。
「おいおい、そんなフォームじゃ一分ももたねえぞ、ボウズ」
不意に横に並んだ影から、低く濁った声が掛けられた。
驚いて視線を向けると、そこには、全身を真っ黒なサイクルジャージで包んだ巨漢の男がいた。年齢は四十代半ばといったところか。日に焼けた顔には深い皺が刻まれ、その太ももは駆の胴体ほどもあるかのように太く、筋張っている。
男が乗っているのは、これまたブランドロゴすら判別できない、泥と傷にまみれた漆黒のロードバイクだった。
「ハンドルを腕力で引っ張り上げるな! 体幹で抑え込め! ギヤが重すぎる、あと二枚軽くして回転数で稼げ!」
初対面の男からの、怒号に近い指示。しかし、限界を迎えていた駆の身体は、考えるより先にその言葉に従っていた。
カチャカチャ、とギヤを二枚落とす。途端にペダルは軽くなったが、今度は足の回転を早くしなければ進まない。
「そうだ! 顎を引け! 風の逃げ道を作ってやれ!」
言われるがままに頭を下げると、正面から受ける風の圧力が、ほんのわずかに優しくなった気がした。
男は駆と時速三十五キロメートルで完全に並走しながら、値踏みするような鋭い視線を駆の自転車へと向けた。
「……そいつは、クロモリか。今時、そんな重戦車で霞ヶ浦の向かい風に喧嘩を売るバカが、城南高校のジャージを着て何をしてる」
「俺は……っ、俺はっ……!」
呼吸が苦しくて、声にならない。それでも、駆は喉の奥から血の味がするほどの息を吐き出しながら叫んだ。
「鉄屑じゃ……ない……っ! クビにされたって……俺は、走りたいんだ!!」
男の目が、一瞬だけ細められた。
「ふん。泣き虫の割には、いい目をしてる」
直後、男がニヤリと不敵な笑みを浮かべた。
「ボウズ、俺の真後ろに入れ。風を遮ってやる。千切れたら、二度とお前の前には現れねえからな」
男がダンシング(立ち漕ぎ)で一気に加速した。漆黒のバイクが爆発的な金属音を響かせ、駆のわずか数十センチメートル前へと滑り込む。
その瞬間、駆の世界から「風」が消えた。
「え……っ!?」
男のぶ厚い背中が、正面からの暴風を完全に遮断していた。突如として目の前の空気の壁が消失し、ペダルが信じられないほど軽くなる。
これが、ツール・ド・フランスの画面の向こうで観た、ルーラーの――『アシスト』の風除けの威力なのか。
「見惚れてんじゃねえ、しっかり車間を詰めろ! 前が急ブレーキを踏んだら一発で落車する距離を維持しろ。恐怖に負けた瞬間、風の餌食だぞ!」
無線のマイクもないのに、男の声が風の隙間を縫って明瞭に届く。
駆は恐怖をねじ伏せ、男の後輪と自分の前輪の距離を、わずか三十センチメートルにまで接近させた。男の背中しか見えない。だが、その背中が、どれほど猛烈な風を一人で受け止めているかは、男のジャージが激しくはためく音で分かった。
時速は四十キロメートル、四十二キロメートル。
部活の練習では一瞬で千切られた未知の領域。それを、駆の重いクロモリバイクが、男の影の中で綺麗にトレースしていく。
どれほどの時間、そうして走っただろうか。湖畔の直線道路の終点が見え、男がゆっくりとスピードを落としてロードバイクを路肩に止めた。
駆はもはや立っていることもできず、ペダルから足を外すと、そのまま草むらに倒れ込んだ。
「はーっ、ひゅーっ、はーっ……!」
仰向けになった視界で、茨城の夕焼け空がぐるぐると回っている。生きてきた中で、一番苦しく、そして、一番澄み切った時間だった。
男は慣れた手つきで自転車から降りると、倒れ込む駆の横に歩み寄り、自身のバイクを重そうに支える駆のクロモリを見つめた。
「十・五キロってところか。重いな。だが、フレームの芯は腐っちゃいねえ。乗り手がド素人のせいで、可哀想に拗ねてやがるがな」
男は腰のボトルから水を一口飲むと、駆を見下ろして言った。
「俺は梶。この先にある小さなサイクルショップのオーナーだ。ボウズ、名前は?」
「……新……新堂、駆、です……」
「そうか、駆。お前、部活をクビになったって言ったな。理由は『遅いから』か? それとも『機材が鉄屑だから』か?」
駆は悔しさに唇を噛みながら、静かに頷いた。
梶は鼻で笑い、駆のクロモリのサドルをポンと叩いた。
「上等じゃねえか。エリート気取りのカーボン坊主どもに、現実ってやつを教えてやりたいと思ってたところだ。駆、お前には山を登る軽さも、ゴール前でハナ差を制するスプリントの爆発力もない。だがな――」
梶の目が、夕陽を浴びて獰猛に光った。
「この猛烈な向かい風の中、時速三十五キロで十五分間もタレずに踏み続けられる狂った『持続力』だけは、お前のその貧弱な体幹の中に眠ってる。お前は弱くない。ただ、使い道が間違っているだけだ」
その言葉は、クビを宣告されて粉々になっていた駆の心に、消えない火種を真っ直ぐに放り込んできた。
「俺の店に来い、駆。お前みたいなバカなルーラーの使い道を、俺が教えてやる」




