↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
鉄屑と人間機関車  作者: 森のくまさん
第1章:茨城・雑草ショップ編
PR
4/24

第4話:泣き虫の激走

 ごう、と遮るもののない湖畔に、容赦のない「筑波颪(つくばおろし)」が吹き荒れる。

 時速三十五キロメートル。それは最新のカーボンバイクに乗る一ノ瀬たちにとっては、涼しい顔で維持できる「ただの練習ペース」かもしれない。だが、十・五キログラムの重い鉄屑にしがみつく駆にとっては、心臓を物理的に削り取るようなデスゾーンだった。

 涙と汗がぐちゃぐちゃに混ざり合って顔を濡らす。肺が酸素を拒絶して悲鳴を上げている。それでも、駆はペダルを踏む足を止めなかった。

 その時だった。

 風を切り裂く重厚な駆動音が、背後から急速に迫ってきた。

「おいおい、そんなフォームじゃ一分ももたねえぞ、ボウズ」

 不意に横に並んだ影から、低く濁った声が掛けられた。

 驚いて視線を向けると、そこには、全身を真っ黒なサイクルジャージで包んだ巨漢の男がいた。年齢は四十代半ばといったところか。日に焼けた顔には深い皺が刻まれ、その太ももは駆の胴体ほどもあるかのように太く、筋張っている。

 男が乗っているのは、これまたブランドロゴすら判別できない、泥と傷にまみれた漆黒のロードバイクだった。

「ハンドルを腕力で引っ張り上げるな! 体幹で抑え込め! ギヤが重すぎる、あと二枚軽くして回転数(ケイデンス)で稼げ!」

 初対面の男からの、怒号に近い指示。しかし、限界を迎えていた駆の身体は、考えるより先にその言葉に従っていた。

 カチャカチャ、とギヤを二枚落とす。途端にペダルは軽くなったが、今度は足の回転を早くしなければ進まない。

「そうだ! 顎を引け! 風の逃げ道を作ってやれ!」

 言われるがままに頭を下げると、正面から受ける風の圧力が、ほんのわずかに優しくなった気がした。

 男は駆と時速三十五キロメートルで完全に並走しながら、値踏みするような鋭い視線を駆の自転車へと向けた。

「……そいつは、クロモリか。今時、そんな重戦車で霞ヶ浦の向かい風に喧嘩を売るバカが、城南高校のジャージを着て何をしてる」

「俺は……っ、俺はっ……!」

 呼吸が苦しくて、声にならない。それでも、駆は喉の奥から血の味がするほどの息を吐き出しながら叫んだ。

「鉄屑じゃ……ない……っ! クビにされたって……俺は、走りたいんだ!!」

 男の目が、一瞬だけ細められた。

「ふん。泣き虫の割には、いい目をしてる」

 直後、男がニヤリと不敵な笑みを浮かべた。

「ボウズ、俺の真後ろに入れ。風を遮ってやる。千切れたら、二度とお前の前には現れねえからな」

 男がダンシング(立ち漕ぎ)で一気に加速した。漆黒のバイクが爆発的な金属音を響かせ、駆のわずか数十センチメートル前へと滑り込む。

 その瞬間、駆の世界から「風」が消えた。

「え……っ!?」

 男のぶ厚い背中が、正面からの暴風を完全に遮断していた。突如として目の前の空気の壁が消失し、ペダルが信じられないほど軽くなる。

 これが、ツール・ド・フランスの画面の向こうで観た、ルーラーの――『アシスト』の風除け(ドラフティング)の威力なのか。

「見惚れてんじゃねえ、しっかり車間を詰めろ! 前が急ブレーキを踏んだら一発で落車する距離を維持しろ。恐怖に負けた瞬間、風の餌食だぞ!」

 無線のマイクもないのに、男の声が風の隙間を縫って明瞭に届く。

 駆は恐怖をねじ伏せ、男の後輪と自分の前輪の距離を、わずか三十センチメートルにまで接近させた。男の背中しか見えない。だが、その背中が、どれほど猛烈な風を一人で受け止めているかは、男のジャージが激しくはためく音で分かった。

 時速は四十キロメートル、四十二キロメートル。

 部活の練習では一瞬で千切られた未知の領域。それを、駆の重いクロモリバイクが、男の影の中で綺麗にトレースしていく。

 どれほどの時間、そうして走っただろうか。湖畔の直線道路の終点が見え、男がゆっくりとスピードを落としてロードバイクを路肩に止めた。

 駆はもはや立っていることもできず、ペダルから足を外すと、そのまま草むらに倒れ込んだ。

「はーっ、ひゅーっ、はーっ……!」

 仰向けになった視界で、茨城の夕焼け空がぐるぐると回っている。生きてきた中で、一番苦しく、そして、一番澄み切った時間だった。

 男は慣れた手つきで自転車から降りると、倒れ込む駆の横に歩み寄り、自身のバイクを重そうに支える駆のクロモリを見つめた。

「十・五キロってところか。重いな。だが、フレームの芯は腐っちゃいねえ。乗り手がド素人のせいで、可哀想に拗ねてやがるがな」

 男は腰のボトルから水を一口飲むと、駆を見下ろして言った。

「俺は(かじ)。この先にある小さなサイクルショップのオーナーだ。ボウズ、名前は?」

「……(しん)……新堂、駆、です……」

「そうか、駆。お前、部活をクビになったって言ったな。理由は『遅いから』か? それとも『機材が鉄屑だから』か?」

 駆は悔しさに唇を噛みながら、静かに頷いた。

 梶は鼻で笑い、駆のクロモリのサドルをポンと叩いた。

「上等じゃねえか。エリート気取りのカーボン坊主どもに、現実ってやつを教えてやりたいと思ってたところだ。駆、お前には山を登る軽さも、ゴール前でハナ差を制するスプリントの爆発力もない。だがな――」

 梶の目が、夕陽を浴びて獰猛に光った。

「この猛烈な向かい風の中、時速三十五キロで十五分間もタレずに踏み続けられる狂った『持続力』だけは、お前のその貧弱な体幹の中に眠ってる。お前は弱くない。ただ、使い道が間違っているだけだ」

 その言葉は、クビを宣告されて粉々になっていた駆の心に、消えない火種を真っ直ぐに放り込んできた。

「俺の店に来い、駆。お前みたいなバカなルーラーの使い道を、俺が教えてやる」


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。