第23話:高3の夏、それぞれの空
あの群サイでの昇格から、一年。高校三年目の夏、僕たちの頭上にある空は、かつてないほど高く、そして別々の色に分かれつつあった。
じりじりと肌を焼く八月の太陽の下、新堂駆はJBCF(実業団)のアマチュア最高峰カテゴリーである「E1」のパドックにいた。
あれからの一年間、駆はE2の舞台で徹底的に大人たちからマークされ、時に激しい洗礼を浴びながらも、梶オーナーのペース配分と「確実に着順を重ねて完走する」というドブ板を踏むような走りを貫いてきた。一発の派手な勝利こそない。リザルトは常に十位台の地味なものだった。しかし、その小さいポイントの積み重ねにより、駆はついにアマチュアレーサーの最高峰である「E1」への切符を正式に掴み取っていた。
しかし、どれだけ実業団を這い上がろうとも、駆の元には一つの真実が横たわっていた。
(……やっぱり、日本国内のレースじゃ、俺のリザルト(個人勝利)は残らない)
E1に上がっても、日本のコースは相変わらず上りと下りしかない。駆の「機関車」としての巡航パワーは、チームの先輩たちを勝たせるためのアシストとしては重宝されたが、自分が一番にゴールラインを駆け抜けるための武器にはなり得なかった。
同じ夏。駆を部活からクビにした一ノ瀬は、まったく別の「光の道」の頂点に立っていた。
『さあ、先頭は独走! 城南高校の一ノ瀬! 圧倒的な大差をつけて、今、インターハイのゴールラインを駆け抜けました! 』
スマートフォンの画面の向こう、汗ひとつかいていないような綺麗な顔で、両手を高く突き上げてインターハイの表彰台の頂点に立つ一ノ瀬の姿があった。
彼は高校の部活(高体連)という王道を極め、名門大学の強豪自転車部への推薦進学をすでに内定させていた。学連(大学自転車界)のエリートとして、秋のインカレ、そして日本の自転車界の王道を往くことが約束されている男。一ノ瀬の背中は、高校一年のあの日、霞ヶ浦で千切られた時と同じように、はるかはるか遠い場所にあるように見えた。
「……一ノ瀬は、大学で日本一を目指すんだな」
夜、サイクルショップ・カジの裏手。駆がそんな呟きを漏らした時、隣で黙々とアルミのロードバイクのチェーンを磨いていた佐藤が、フッと静かに笑った。
「いいじゃねえか。あいつはあいつの道で、日本一になればさ」
佐藤の手元にある進路希望調査票には、すでに『地元企業への就職』の文字がはっきりと書き込まれていた。
実家の経済的な現実を受け入れ、大学進学を諦めた佐藤。彼のその選択に、以前のような悲壮感は微塵もなかった。むしろ、その横顔には、野生の獣のような獰猛な執念が静かに宿り始めている。
「駆。俺さ、会社に入ったら、まずは平日の夜、暗い部屋で一人でローラーを回す生活になると思う。仕事がどれだけキツくても、絶対に毎日一時間、心拍数を限界まで追い込んでやるんだ」
佐藤はウエスを置き、駆の漆黒のカーボンバイクのハンドルを優しく、しかし強く叩いた。
「俺は学連のエリートでも、プロでもない。だけどな、アマチュアだからこそ、人生の全部を賭けて、いつかエリートのバケモノどもを全員ぶち抜いて全日本選手権のエントリーを掴んでみせる。お前がE1の底で牙を研いでるなら、俺も地獄の底から這い上がってやるよ」
駆は、親友のその言葉に、胸の奥が熱く震えるのを確かに感じた。
高体連の王座を掴み、大学の学連エリートへと進む一ノ瀬。
アマチュアの最高峰E1に到達しながらも、プロのアシストとしての生き方に己を捧げる駆。
そして、現実を背負い、深夜の一時間に全てを賭けて社会人ホビーレーサーへの道を歩み出す佐藤。
高校三年生の夏。僕たちの進む道は、ここで完全に、三つの異なる方向へと分岐した。
しかし、これが終わりではない。この別々の空の先にあるのは、数年後、日本一の山岳地獄と呼ばれる日本CSCで、プロの絶対王者(神崎)という絶望的な壁を前に、僕たち雑草の二人が最後尾で命を懸けて共闘する、運命の全日本選手権のスタートラインへと繋がっているのだ。
「……待ってるぞ、佐藤。俺もプロのチームのスカウトの目を、絶対に惹きつけてみせる」
「おう。絶対に追いついてやるよ、駆」
茨城の夜風の中、二人の少年は、それぞれの未来に向けて、もう一度だけ力強く拳を突き合わせた。




