第24話:プロの契約書、社会人のタイムカード
「新堂駆。お前をうちのチームの『研修生』として、最低保障の契約で迎える」
高校の卒業式を終えた三月の末。駆が立っていたのは、国内の老舗UCIコンチネンタル(三部プロ)チームの事務所だった。
差し出された一枚の契約書。そこに記載された金額は、遠征費と機材の支給、そして雀の涙ほどの活動手当のみ。実質的には「アルバイトをしながらでなければ生活できない」という、これが日本国内のプロロードレース界における雑草レーサーのリアルな現実だった。
秋の南魚沼ロードレースで集団が緩んだ瞬間に単独の逃げを成功させてなんと並み居る強豪を押さえてE1クラスタでの優勝を決めていた。その時のレースのデータが、プロの監督のリストにしっかりと刻まれていた。
「お前に求めるのは、エースを勝たせるための『使い捨ての機関車』だ。機材はチーム支給の現行カーボンを提供する。今日からお前はプロだ、新堂」
駆は震える手でサインした。チームから支給された最新のカーボンバイクは、かつての型落ちとは比べ物にならないほど軽くて硬い、本物の戦斧だった。だが、手放した魔改造パーツの一式を見つめると、ここまでの泥臭い道のりの重みが胸に去来した。
同じ四月。親友の佐藤は、地元の小さなプレス加工工場の門を叩いていた。
ガシャン、ガシャン、と重厚な機械音が一日中響き渡る工場。佐藤の仕事は、油まみれの鉄板を機械にセットし、ひたすらプレスし続ける過酷な肉体労働だった。
夕方、定時を過ぎても終わらない残業。上司からの叱責や、慣れない社会人としての重圧に、佐藤の精神と肉体は早くもボロボロに擦り切れていった。
「佐藤くん、お疲れ様。明日も早いからね」
「……はい、お疲れ様でした」
タイムカードをガチャンと押し、工場を出る頃には夜の八時を大きく回っている。実家の家計を助けるために選んだ、就職という道。
暗い夜道をトボトボと歩きながら、佐藤は作業着のポケットの中で拳を強く握りしめた。
(疲れた。脚が重い。このまま風呂に入って寝てしまいたい……)
それが、普通の人間だ。しかし、佐藤の自宅の六畳一間の片隅には、オークションで買った型落ちのカーボンのロードバイクと、梶オーナーから「全日本に行きたいなら、毎晩これを回せ」と渡されたスマートトレーナーが、静かに牙を研ぐようにして待っていた。
一方、かつてのライバル一ノ瀬は、東京の名門大学の自転車競技部で、最新の機材と恵まれた奨学金環境の中、「大学日本一」を目指して、エリート街道のド真ん中を爆走していた。彼の生活の全ては、自転車の勝利のためだけに最適化されていた。
プロチームの最底辺で、使い捨ての盾として生きる覚悟を決めた駆。
工場の油にまみれ、社会人の現実と戦いながら、深夜の暗闇を睨みつける佐藤。
高校を卒業し、僕たちの日常は完全に別れた。
しかし、この格差だらけの日常の裏側で、僕たち雑草の二人の執念は、折れてはいなかった。
「……プロのプロトン(集団)を、舐めるなよ、駆」
梶オーナーの言葉通り、駆はこれから、国内国際レースという本物のバケモノたちが蠢く世界へと、その身を投じることになる。




