第17話:メトロノーム殺し
一本の坂をクリアしても、すぐに次の奈落が、そして次の壁が牙を剥く。
それが平坦ゼロの地獄、日本CSCの洗礼だった。
六周目の急下り区間で、時速八十キロメートルの超高速ダウンヒルを敢行した駆の人間機関車は、下りきった勢い(慣性)をそのまま次の登り返しへと繋げ、メイン集団に対して「十五秒」の決定的なリードを奪い去っていた。
そしてレースは、泣いても笑っても最後の五キロ――最終周回の七周目へと突入した。
この一周の中にも、まだ数回もの険しい上り坂と下り坂が波のように待ち受けている。
「駆……! 後ろ、追撃のトレインが組まれ始めたぞ! 奴ら、本気で獲りに来てる!」
駆の真後ろにつく岩田先輩が、引きちぎれそうな呼吸の中で叫んだ。
振り返る余裕はない。だが、背後からは「昇格」を絶対に諦めない実業団の大人たちや、格上エリートの一ノ瀬たちが、死に物狂いで踏む数十台の集団の爆音が、風に乗って確実に迫りつつあった。十五秒あった差が、十三秒、十秒とジワジワ削られていく。
上り坂、下り坂、そしてまた上り坂。
伊豆の容赦ないアップダウンが繰り返されるたびに、駆の太ももの筋肉は限界を超え、微かに痙攣を始めていた。自らのリザルトは最初から捨てている。だが、ここで自分がタレれば(失速すれば)、後ろの岩田先輩が一瞬で風の暴力に晒され、集団に飲み込まれて終わる。
(まだだ……まだ踏める。俺の心臓は、このためにある……!)
駆は、コース内に点在する無数の激坂の入り口に差し掛かるたびに、あえて腰を下ろしたまま、上体を水平に伏せる独走フォームをとった。
そして、サイクルコンピューターのワット数だけを睨みつけ、機械のように正確な「一定のハイペース」を刻み続けた。
普通のアマチュアは、後ろから追撃が迫ると焦って坂でペダリングを乱し、自滅する。しかし、駆の刻むメトロノームのような一定の高出力は、追ってくるメイン集団の心理をジワジワと、確実に確実に追い詰めていた。
追う側の心理として、「目の前の逃げが全くスピードを落とさない」という現実は、凄まじい精神的プレッシャーになる。しかも伊豆のコースは小刻みなアップダウンの連続だ。駆を捕まえるために坂のたびに無理な急加速を強いられる追撃集団の大人たちは、駆に追いつく前に、自分たちの脚を猛烈に削り取られていた。
「クソッ……! なんであのクビ男はタレないんだ!? 坂のたびに足が削られる……っ!」
集団の中で追撃を指揮していた一ノ瀬も、伊豆の度重なるアップダウンと駆の刻む殺人的なペースの前に、激しい無酸素運動で顔を真っ白にしていた。
残り一・五キロメートル。コース最後の難所、通称「心臓破りの坂」の激坂区間に突入した。
追撃集団との差は、わずか五秒。すぐ後ろに、ライバルたちの荒い息遣いとギヤの金属音が迫っている。
だが、そのメイン集団の足は、度重なるアップダウンでの無理な追撃によって、すでに全員が限界を迎え、棒のようになっていた。そこからさらに駆を追い抜くためのアタックを打てる者は、もう誰一人として残っていなかった。
「岩田さん……っ、ラストの、下りと平坦です……! 行って、ください……!」
激坂の頂上を越えた瞬間、駆の肉体は完全に限界を迎え、全ての血の気が引いて視界が真っ黒に染まった。車体を大きく右側に逸らし、失速していく駆。
その駆の左肩を、今まで完全に風から守られ、体力を限界まで温存していた岩田先輩の漆黒のバイクが、猛烈な勢いでかすめていった。
「おおおおおっしゃあぁぁぁ!! 駆、最高の仕事をありがとおぉぉぉ!!」
岩田先輩の爆発的なスプリントが、伊豆の最後の直線へと解き放たれる。
足をすり潰されたライバルたちに、岩田先輩の背中を追う力はもう、全く残されていなかった。駆が仕掛けた伊豆の山岳戦術は、最後の最後で、完璧な完全犯罪として成立したのだ。




