第15話:リザルトを捨てる覚悟
「お前、まだ自分が十位以内に入って昇格したいか?」
サイクルショップ・カジの薄暗い作業場で、梶オーナーの声が低く響いた。
駆は傷だらけのカーボンバイクのチェーンを磨きながら、言葉に詰まった。JBCF(実業団)のE3。誰もが昇格の切符を狙ってエゴを剥き出しにする個人戦の修羅場で、自分が一番にゴールを駆け抜ける姿を、一度も想像しなかったと言えば嘘になる。
「日本の実業団レースはな、ほとんどが山岳ロードか、市街地のクリテリウムだ。お前は平坦が得意だからクリテなら勝てると思うか? 甘え。日本のクリテは直角コーナーだらけのストップ・アンド・ゴーだ。コーナーを曲がるたびに時速ゼロから時速五十キロまでダッシュさせられる。お前みたいな一定のワット数を刻むようなタイプは、そのインターバルダッシュで一瞬で置いていかれる、更にゴールスプリントで抜け出すこともできねぇ」
梶はタバコの煙を天井へ吐き出し、鋭い眼光を駆に向けた。
「つまりな、駆。お前がこの日本国内のレースで『自分が勝つこと』にこだわっている限り、お前は一生、回収車の荷台で行列を作るだけだ」
「……っ」
駆の手が止まる。それは、自分の選手生命に対する死刑宣告に等しかった。
しかし、梶の言葉にはまだ続きがあった。
「勝ちたければ、まずは自分のリザルトを完全に捨てろ」
「リザルトを、捨てる……?」
「そうだ。エリートクラスの連中は全員が自分のポイントのために走ってる。だから誰も他人のために自分から風を引かないし、レース全体のペースをコントロールしようともしない。カオス(大混乱)だ。だがな、お前が自分の順位をハナから捨てて、他人のために『完璧な盾』になれるなら、お前一人でそのカオスな集団全員の足をすり潰せる」
梶は作業机の上のコースマップ――次戦の舞台である伊豆の「日本CSC(日本サイクルスポーツセンター)」の5キロサーキットを指差した。
「次の日本CSCは、平坦が1ミリもない激坂と急下りの連続だ。E3のバカどもは、ここでも我先にと坂でアタックを打って自滅していく。駆、お前はチームの岩田たちのために走れ。岩田は登れるベテランだ。お前が上り坂の入り口から、岩田が一番楽に登れて、かつ、周りのエゴイストどもがアタックを打てない絶妙なハイペースを先頭で刻み続けろ」
上り坂での集団コントロール。誰もが嫌がる「先頭での風除け」を、最も苦手な山岳で自ら買って出る。当然、そんなことをすれば、駆自身の脚はゴールを迎えるはるか手前で完全に売り切れる。リザルトは再び「DNF(途中リタイア)」になるだろう。
だが、駆の胸の中で、何かがカチリと噛み合った。
自分が勝つためではない。ただ一人、自分を拾ってくれたこのショップの仲間を勝たせるために、自分の肉体を完璧なシステムとして使い捨てる。
「……分かりました。俺の順位は、いりません」
駆は顔を上げ、淀みのない目で梶を見返した。
「俺が、伊豆の坂を攻略します。岩田さんを、絶対に十位以内(昇格枠)まで連れて行きます」
「フン、いい面構えだ」
梶がニヤリと笑う。
自分の勝利というエゴを捨て、最強の『人間機関車』としての覚醒。
平坦が1ミリもない伊豆の激坂を舞台に、弱者が頭脳で集団の心理を支配する、孤独で過酷な戦いが始まろうとしていた。




