第14話:上りと下りだけの絶望
「日本のロードレースに、ルーラーの居場所なんてねえんだよ」
かつて梶オーナーがタバコを燻らせながら吐き捨てた言葉が、駆の脳裏を容赦なく引っ掻いた。
スタートからわずか数キロメートル。道幅の狭い公道を時速四十五キロメートルオーバーで突き進むE3の集団は、平坦が終わり、一つ目の本格的な上り坂へと突入した瞬間に完全にバラバラに砕け散った。
十位以内に入れば、一発でE2へ自動昇格できる。
そのルールが、集団の利己的な本能を剥き出しにさせていた。協調して風を引く者など誰もいない。我先にと上のカテゴリーへ駆け上がりたい選手たちが、坂の入り口から次々と腰を浮かせ、激しいダンシング(立ち漕ぎ)で急加速を仕掛けていく。
限界まで張り詰められたチェーンが軋む音が福島の山あいに響く。
岩田から譲り受けた漆黒のカーボンフレームにより、駆のバイクは七・五キログラムまで軽量化されていた。クロモリの時に比べれば、確かに上り坂での抵抗は軽い。
だが、いかんせん駆の肉体は、長い距離を一定のペースで維持し続けるためのサイズと筋肉だ。クライマーたちの重力から解き放たれたかのような、爆発的な登坂加速に、肉体がどうしても反応しない。
カチャカチャ、と変速レバーを叩いてギヤを軽くする。現代のプロが使う十一速や十二速に比べ、駆のギヤは一世代前の「十速」。一枚の重みの差が山岳では牙を剥く。周りの選手たちとの車間はみるみるうちに開いていく。
「あ、が……っ、くそ……!」
誰も助けてはくれない。ここは剥き出しの個人戦の修羅場だ。遅れた奴から順番に、ただ静かに戦列から排除されていく。駆は一瞬にして、集団の最後尾へと引きずり降ろされた。
「新堂くん、バイバイ」
駆の真横を、軽快なペダリングで駆け上がっていく影があった。城南高校の一ノ瀬だ。高体連のエリートとして徹底的に山岳を鍛え直してきた彼は、最新の超軽量カーボンバイクを羽のように操り、駆をあざ笑うように抜き去っていった。一ノ瀬の背中は、あっという間に激坂の霧の向こうへと消えていく。
そして、日本のロードレースコースの本当の過酷さは、「上り」の後に必ず「同じ分だけの下り」があることだった。
上り坂で完全に脚をすり潰され、乳酸でパンパンになった太もも。そこへ、崖のように切り落ちた曲がりくねった下り坂が襲いかかる。実業団の大人たちは、E2の切符を掴むために、落車の恐怖をねじ伏せて時速七十キロメートルオーバーでコーナーへと突っ込んでいく。
疲労で視界がチカチカと明滅する駆には、その速度についていく技術も、恐怖に耐える精神力も、まだ残されていなかった。
数周回を終えたところで、コース脇の審判から非情な赤旗が振られた。先頭から一定以上のタイム差をつけられたことによる、強制リタイア。
駆の実業団デビュー戦のリザルトは、残酷な三文字のアルファベットだった。
『DNF』――途中リタイア。
回収車の荷台に重い自転車を載せ、パドックへと戻る道中、駆は一言も発することができなかった。窓の外を流れる福島の景色が、悔しさで酷く歪んで見えた。
これが実業団。これが、自分が勝つためだけに生き残る大人たちの世界。
パドックの片隅で待っていた梶オーナーは、うつむく駆を一瞥すると、冷めた声で言った。
「分かったか。これが上りと下りしかねえ、日本のレースの現実だ」




