第13話:実業団という戦場
「ここからは、趣味の延長じゃねえ。本物の『ライセンス』を持った大人の戦場だ」
高校二年の春。サイクルショップ・カジの油臭い作業場で、梶オーナーは一本のプラスチック製のカードを駆の前に放り投げた。
JCF(日本自転車競技連盟)の登録証。エリートクラスを表す「MEN-E」の文字が刻まれた、本物のライセンスだった。
そして駆の目の前には、見慣れたネイビーのクロモリ(鉄)フレームではなく、漆黒の、しかし至る所に傷がついた一本のカーボンフレームがスタンドに掛けられていた。
「オーナー……これは?」
「常連の岩田が昔レースで使って、物置に眠らせてた型落ちのカーボンだ。お前のあの十・五キロのクロモリじゃ、JBCFエリートの激しい加減速には物理的に対応できねえし、何より日本の実業団コースの『坂』で一瞬で殺される。お前が自分で磨き上げたあの七九〇〇系のデュラエース一式を、今日中にこのフレームに移植しろ」
駆は静かに頷き、工具を握った。
一年間、自分の手足のように乗ってきた相棒との別れは少し寂しかったが、フレームを持った瞬間の驚異的な「軽さ」に、プロの世界の厳しさを肌で感じていた。車体重量は一気に七・五キログラムへと軽量化された。パーツは傷だらけの型落ちだが、中身は完全に「本物のレース機材」へと進化したのだ。
二週間後。駆の実業団デビュー戦の舞台は、福島県・石川町で開催されるロードレースだった。
パドックに並ぶ実業団選手たちの雰囲気は、去年の秋に出場した草レースとは完全に異質だった。お祭り騒ぎで楽しんでいる者は一人もいない。JPTの下部組織であるE3とはいえ、ここにいるのは「本気で上を目指す若手」か「何年もレースを戦ってきた実業団のベテランの大人」たちだ。
「おい、駆。勘違いするなよ」
同じチームのジャージを着た岩田が、スタートラインに並びながら駆の耳元で低く言った。
岩田は本来、上のクラスタであるE2の選手だが昨年は故障や本業の都合もありポイント不足でE3での参戦となっている。
「トップツアーなら組織戦がある。だが、このE3は違う。ここにいる数十人は、全員が自分のポイントと、一刻も早い昇格――『十位以内に入れば一発でE2に上がれる』という自動昇格ルールを狙ってる。チームメイトだろうが何だろうが、誰も助けちゃくれない。風を引かせて他人を利する奴なんて一人もいない、容赦のない『個人戦』だ」
クリートをはめる金属音が、ガシャガシャと冷徹に響き渡る。
少し離れた位置には、城南高校のユニフォームを着た一ノ瀬の姿もあった。彼は高体連の王道を往くエリートだが、シーズン初期の実戦経験を積むために、このE3レースにスポット参戦していた。一ノ瀬は駆の新しいカーボンバイクを一瞬だけ一瞥したが、すぐに視線を前に戻した。そこには、草レースで負けた屈辱をこの修羅場で絶対に晴らすという、鋭い執念が宿っていた。
パーン、と、乾いた号砲が福島の山あいに鳴り響いた。
スタート直後、駆の脳髄を襲ったのは、草レースとは比較にならないほどの「位置取り争い」だった。
道幅の狭い公道を、時速四十五キロメートルオーバーの塊が、肩とハンドルをぶつけ合いながら猛烈な勢いで突き進む。ブレーキを踏む音など一切しない。コーナーのたびに、他チームの選手が強引に駆の進路を塞ぎ、風下に追い詰めようとしてくる。
「っ……これが、実業団の……!」
駆は必死に下ハンドルを握りしめ、梶に叩き込まれたヘッドワークをフル回転させた。
誰もが十位以内の昇格枠を狙って我先にとアタックを繰り返すカオスなサバイバルの中で、日本のロードレース界が誇る、平坦が1ミリもない恐るべき山岳地形が、駆をさらに深い絶望へと引きずり込んでいく。




