第12話:追いつけるものなら
「あいつを……あの鉄屑を絶対に逃がすな!!」
城南高校の一ノ瀬の悲鳴のような叫びが、吹き晒しの平坦ストレートに虚しく響いた。
しかし、その時にはもう遅かった。時速四十五キロメートルを維持して突進してきた駆の『人間機関車』は、風に怯えて失速したエリートたちの集団を、一瞬にして右側から置き去りにした。
まるで、各駅停車の列車を新幹線がごぼう抜きにしていくかのような圧倒的な速度差だった。
駆の背中には、まだ脚が残っているショップの岩田たちがピタリと張り付いている。駆が作った「無風の影」の中で、大人たちは涼しい顔でギヤを上げ、駆の引きに同調した。
「おいボウズ! このままゴールまで突っ切るぞ!」
岩田が叫ぶ。ゴールまでは残り三キロメートル。普通なら、アシストであるルーラーの役割はここで終わり、エースである岩田たちを解き放つタイミングだ。
だが、駆の脳内コンピューターは、さらに冷静に計算結果を弾き出していた。
(……いや、今岩田さんたちが飛び出したら、後ろの一ノ瀬たちに目標にされて追いつかれる。向かい風はここからさらに強くなる。だったら――)
駆は限界を迎えていた太ももに、もう一度だけ強烈なトルクをかけた。
「岩田さん! 誰も前に出ないでください! このまま、俺の背中についてきてください!」
「何だと!?」
大人たちが目を見開く。アシストが、そのままエースを引き連れてゴールまで逃げ切るなど、ロードレースのセオリーではあり得ない暴挙だ。
だが、駆の計算は完璧だった。
後ろの集団は、一ノ瀬たちエリートが「誰が追うんだ」「お前が風を受けろよ」と、いわゆる『囚人のジレンマ』に陥って牽制し合っている。風が強ければ強いほど、先頭に出て追撃の風を受けたくないという心理が働くのだ。集団がほんの数秒躊躇したその隙に、駆はタイム差をさらに十五秒へと広げた。
残り一キロメートル。
駆の肺はとうに限界を超え、喉の奥からはっきりと血の味がしていた。体中の筋肉が「ペダルを止めろ」と叫んでいる。
それでも、型落ちのデュラエースは、駆の執念を確実に推進力へと変え続けた。
振り返る必要はなかった。背後から迫る集団の気配は、もう完全に消えていた。
「嘘だろ……あいつ、一人で風を全部切り裂いて、そのまま逃げ切りやがった……!」
はるか後方で、一ノ瀬が絶望の表情でハンドルを叩いた。
オレンジ色のゴールフラッグが見える。
駆は最後の力を振り絞り、もがくようにペダルを回し切った。
――フィニッシュ。
駆がゴールラインを越えた瞬間、ショップチームの名前「サイクルショップ・カジ」と「新堂駆」の名前がコールされた。クラスA、堂々の初出場・初勝利。
ゴールを過ぎた途端、駆は力尽きて自転車ごと芝生の上へと倒れ込んだ。空を見上げ、激しく喘ぐ。
駆け寄ってきた岩田たち大人に手荒く頭を撫で回され、もみくちゃにされる中、パドックの片隅で腕を組んでいた梶オーナーが、タバコを咥えたまま小さく満足そうに頷くのが見えた。
少し遅れてゴールしてきた一ノ瀬は、芝生に倒れる駆と、その横に横たわるネイビーのクロモリバイクを、まるでバケモノを見るような目で見つめたまま、一言も発することができなかった。
十二万の鉄屑が、百万円のカーボンエリートを平地ですり潰した。その事実は、城南高校自転車部にとって屈辱的な敗北を意味していた。
しかし、これはまだ「草レース」という小さな井戸の中の物語に過ぎない。
高一の秋を最高の形で締めくくった駆は、翌年、さらなる地獄――本物のプロや元プロ、実業団の怪物が蠢く「JBCF(実業団リーグ)」という果てしない大海へと、その足を踏み入れることになる。
(第1章:茨城・雑草ショップ編 完)




