9 初めての船旅
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「わあ――!」
動き出した船のデッキでリュティシアは歓声をあげてしまった。はしたない。でも隣にいるフェリスベルトは微笑みを浮かべてくれた。
「どうだろうか、船は?」
「気持ちいいですわ……!」
船足が上がるにつれ強まる川風に、リュティシアは帽子を押さえる。朝の空気はしっとりとして、今日は結い上げずにおろしているリュティシアの髪を揺らした。
この河は王都アルヴィニスから河口の港町ポルテスまで通じる。下っていく船は大きく、安定していた。
「お母さま、おふねすき?」
「今、好きになったわ。エディと一緒に旅行だなんて夢みたいね」
笑顔を交わすリュティシアとエドゥアルド。それを見守るフェリスベルト――だがこれは、家族旅行ではない。王弟フェリスベルト殿下の産業視察だ。それにリュティシアたちがくっついて来ただけ、という体裁になっている。
海を知らないリュティシアのためにフェリスベルトが誘った旅。王弟殿下は婚約者と親しくなろうと努力中なのだった。
「私は視察で離れる時間も多いが……」
「心配なさらないで。執事のヴァルター、護衛のトルカート、エディにはカティアも付けていただいたし、私のユーニスまで連れてきてくださって」
「それは当然だよ」
リュティシアが名をあげた面々が、少し後ろに控えながら頭を下げた。
いつも地味にしているが、これでもフェリスベルトは王弟殿下だ。婚約者と共に旅を、と声を発すれば家臣たちがザザッと動く。
主だった使用人は主人家族のお世話のために同行しているし、この船も貴賓室が使えるようになっていた。だがリュティシアは都から田園へと変わっていく景色に夢中。船室に引っ込むのはかなり後になりそうだ。
「こんなに開けた空、見たことがない……」
風を見上げてうっとりと微笑む横顔にフェリスベルトは目を細めた。
(リュティシアはいつも表情をクルクル変える。見ているとこっちまで楽しくなるな)
フェリスベルトも空を見てみる。初夏の青。遠いその色に気づいたのは久しぶりのような気がした。この河をたどるなんて何度もしているのに。
深く息を吸って、フェリスベルトは現実に戻る。
「……私は船の技術者と話してくるから。エディをよろしく」
「ええ。いってらっしゃいませ」
「ぼく、おりこうにしてる!」
それは信じていい言葉なのかわからない。実はエドゥアルドだって王都を出るのは初めてで、船の中を探検してみたくてたまらないのだ。
この船は最近建造されたもので、動力が風だけではない。結晶機関を搭載する実験船なのだった。風が弱くても河をさかのぼれるかどうか、帰路が検証の本番となる。そんな船だからこその、王弟の視察。
しかしそろそろエドゥアルドにも貿易や新しい技術に触れる機会を与えたい。リュティシアにアルヴェインを知ってほしい。さまざまな目論見があっての旅だ。
「おふね、たんけんしていい?」
「いいわよ。でも働く皆さんの邪魔にならないように気をつけること!」
「はあい!」
これは重要な注意だった。エドゥアルドがウロウロすると、その後ろを使用人たちがゾロゾロついて歩かねばならないから。あまり狭い所には行かないでほしい。
しかしそんな人々の願いもむなしく、小さな男の子はあちこちの隙間をのぞきこみ、通路に入り込もうとしてはリュティシアに引き戻されていた。ユーニスはクスクス笑ってしまう。
(リュティさまが誰かをたしなめる側に回るだなんて!)
ガルディアではあまり見たことのない光景だ。でも肩をふるわせ笑いをこらえていると、トルカートに不思議そうにされる。
「……どうしました」
「あ、いえ。リュティさまも大人になられたなと思って」
「はい……?」
隙のない護衛はリュティシアとエドゥアルドから目を離さない。トルカートにとってリュティシアの行動は十分に若々しく少女のように思えた。「大人になった」と言われても。
「……はずむように歩く女性ですね」
「すみません、あれでも落ち着いてきたんですよ」
侍女の歯に衣着せぬ言い方にトルカートは無言になった。何を言っても藪蛇のような気がしたのだ。もしや本国ではとんでもないお転婆姫だったのか。
だが明るくて元気なリュティシアが婚約者として側にいるようになってから、フェリスベルトは変わってきている。ほんの少し雰囲気がゆるくなった。それはトルカートにとって嬉しいことだ。フェリスベルトには以前の成婚の頃から仕えてきたので、できるなら幸せを取り戻してほしかった。
甲板より上は客室になっている。その廊下をグルリとめぐったエドゥアルドはふたたび階段を下り、デッキへ戻ってきた。これより下にあるのは荷室と機関室。子どもの立ち入る場所ではないと思ったリュティシアがそっと手を引く。
「さあエディ、そろそろお部屋に落ち着いてみましょうよ」
「はあい。たんけんたのしかったね!」
いいお返事をしたエドゥアルドだったが、下の機関室から出てきたフェリスベルトが階段に姿を現した。
「お父さま!」
探検の報告がしたくてエドゥアルドは階段を駆け下りようとする。しかし船員用のここは、よそよりも急なのだ。ガクッと足を踏み外す。
「エディ!」
手をつないでいたリュティシアも引きずられて落ちそうになった。
「失礼!」
リュティシアの体をグイッと支えてくれたのはトルカートだった。上から体と腕を伸ばし、なんとかつかまえて落下を防ぐ。リュティシアなら手すりを握る腕力で問題なかったのだが――これはか弱い女性をよそおうべき場面か。
息子と婚約者の危機に階段の下で悲鳴を飲み込んだフェリスベルトは、慌てて駆け上がってきた。
「エディ! リュティシア!」
「……だいじょうぶですわ」
トルカートに助け起こされるリュティシア。そしてリュティシアに引っぱり上げられるエドゥアルド。皆の無事を確認してフェリスベルトは、自分が恐怖に鳥肌を立てていたことに気づいた。エドゥアルドを片手に抱き――リュティシアの背にも手を添える。
「まったく……いい子にしていると言ったのは誰だい、エディ?」
「ごめんなさい……」
しょんぼりするエドゥアルドの前で、リュティシアは別の理由でドキドキしていた。
(フェリスベルトさま、手! 手が背中に!)
これまではエスコートとして軽く腕を組むぐらいしかしてこなかった二人の距離が近い。叱られているのにそのことが気になってリュティシアは硬直してしまった。
「トルカート、よくやった」
スッと一歩下がって頭を下げる護衛をねぎらいながら、しかしフェリスベルトは微妙な気分だった。
(トルカート……リュティシアのことを抱きとめる形になっていたな……)
婚約者のフェリスベルトより密着されてしまったことに、なんとなくわだかまりを感じる。
この場合は仕方のないことだとわかっているのにモヤモヤしたのを認めたくなくて、フェリスベルトも無表情に押し黙ってしまった。
✻
その後は貴賓室でおとなしく過ごしたリュティシアたちが港町ポルテスへ到着したのは翌日の昼だった。
河口から少し河へ入った所に大小の桟橋が作られ、陸には倉庫が並んでいる。岬に立つ灯台とその向こうに広がる海原を目にしたリュティシアは、甲板に立って息を飲んだ。
「これが海……?」
隣に立つフェリスベルトが軽くうなずく。
「そうだよ、広いだろう。あれが全部塩水なんだ」
「波がすごい……」
「今日はおだやかな方だと思うが」
湖のさざ波しか知らないリュティシアにとって、果てなく押し寄せるうねりと白く砕ける波頭は十分に荒々しい。
「さあ、下りないと後ろの皆が困ってしまうから」
この船で一番高貴な客だったリュティシアたちが動くのを誰もが待っているのだった。
下船の渡し板はフェリスベルトにエスコートされながら歩く。王都で乗り込んだ時より揺れる気がした。海の波が伝わっているのだろう。
リュティシアは思わずギュッと婚約者の腕につかまる。そのことにフェリスベルトはそこはかとない満足をおぼえた。




