10 そして港町
下り立った港には潮の匂いがただよっていた。リュティシアは顔を上げて風をかぐ。
「不思議な香りがします……」
「たぶん潮風だな。旅の情緒はあるが、町は塩害で傷みやすくなる」
肘を貸し、せっかく婚約者っぽい雰囲気なのに情緒のないことを言い出すフェリスベルトだった。どうしても為政者側の視点で物事を見てしまうのは仕方ない。今回は仕事に来ているのだし。
「私はこのまま倉庫業者と商会の視察に回るよ。宿のことは執事のヴァルターが心得ているから、先にエディと行っていてくれるかい」
「お父さま、まちのたんけんしてもいい?」
後ろから割り込んできたのはエドゥアルド。見知らぬ町にワクワクが抑え切れていない。フェリスベルトは腕白な息子にいちおう釘を刺した。
「階段を転げ落ちないようにな?」
「……はぁい」
「宿までの間に大きな通りがある。そこの土産物屋をのぞくだけでも楽しいだろう。明日は一緒に町を歩く時間が取れるから、今日はリュティシアの言うことを聞くんだぞ」
「うん!」
フェリスベルトはリュティシアに会釈すると離れていく。宮廷の事務官たちと共に仕事に向かうのを見送って、リュティシアはホウっと息を吐いた。
(実はとても大変なお仕事をなさっているのよね……)
リュティシアの前ではいつもなごやかなフェリスベルトだが、ああして官僚たちと言葉を交わす姿はキリリとしていた。時に厳しい質問を発して事務方がタジタジになることもあるらしい。そんな姿を目にすることができてリュティシアはなんだか照れてしまった。
「お母さま」
エドゥアルドの小さな手が、リュティシアの手のひらにすべり込んでくる。見上げてニッコリする顔が喜びに輝いていた。
「ぼく、ちゃんとする。お母さまのおてて、はなさないからだいじょうぶ」
「まあいい子。じゃあ行きましょうか。ヴァルター、案内をお願いね」
「お任せを」
王弟一家を長年取り仕切っているベテラン執事のヴァルターは気取って応えてくれた。
これは外国から嫁いできてくれるリュティシアにアルヴェインの良さを知ってもらうまたとない機会。そして王族としてのエドゥアルドが見聞を広め下々の生活に触れる大切な学習なのだ。腕が鳴るというもの!
「フェリスベルトさまがおもむいた倉庫街には、海運会社や商会がたくさんございます。その近くには船員たちが使う宿も多く……」
「私たちもそちらに泊まるのかしら?」
「いえ、彼らの中には荒っぽい者もおりますので。町の表通りを抜けて少し丘を登ったところに大きめの宿をお取りしました。お部屋から海もながめられます」
「まあ……楽しみねエディ」
「うん!」
「今のお二人はちょっと裕福な商家か下位の貴族ぐらいのいでたちをなさっておいでですから……道々のお店をのぞいてみましょう。お買い物もどうぞ。何事も勉強だとフェリスベルトさまより申しつかっております」
そう。本日の旅装は町を見て歩いても違和感のないように簡素にしてある。あんまり上等な服装をしていると大げさにかしこまられたり、逆にぼったくりの押し売りにあったりするかもしれないとフェリスベルトが配慮したのだ。
「私以外は、トルカートら護衛たちもやや離れて歩きますので」
「まあ……ありがとう」
チラリと後ろを見ると、同じく港町を初体験しているユーニスが落ち着かなげにキョロキョロしていた。そっちはカティアが並んでくれているので問題ないだろう。リュティシアはエドゥアルドとニッコリ顔を見合わせる。
「じゃあ楽しくお散歩しましょうね」
「うん!」
「さあ突撃!」
義理の母子は、勇ましく石畳に足を踏み出した。
✻ ✻ ✻
そして夕暮れる頃、フェリスベルトは供を引き連れ宿へと向かっていた。意識を仕事から家族のことへと切り替える。この道をリュティシアたちもたどったはずだ。
(初めての物がたくさんあったろうな……リュティシアはどんな顔をしただろうか)
いつもクルクルと表情豊かな婚約者のことを考える。フェリスベルトは自然と笑んでしまった。
(楽しんでくれていたらいいが。しかし彼女の反応を見られなかったのは惜しいことをした)
快活なリュティシアの言動はいつもフェリスベルトの予想を超えてくる。あんな女性は初めてで、そこにいてくれると時間の流れがあっという間に感じた。ポルテスまでの船旅がこんなに短く思えるなんてこれまでになかったことだ。
宿の玄関を入るとフェリスベルトはうやうやしく出迎えられた。軽く会釈で応え、すぐに上階の部屋へ案内させる。
廊下に控えていたトルカートに目で尋ねると、エドゥアルドの部屋を示された。そこにリュティシアもいるらしい。
「失礼するよ」
ノックすると、開けてくれたのはカティアだった。壁際でユーニスが静かに頭を下げる。
奥の窓は開け放たれていて、外のベランダにリュティシアとエドゥアルドがいた。二人とも旅装をとき、ゆったりした室内着に着替えている。振り返ったエドゥアルドがピョンと駆けてきた。
「お父さま!」
「お帰りなさいませ……あら? それで合っているのかしら、この場合」
ん? と引っかかった顔で天井を見上げられ、フェリスベルトは吹き出した。眉根を寄せて考える顔も可愛い――と思ってしまい、自分に驚く。
「まあいいんじゃないか。今戻った――いや、うちではないし、やはりおかしな感じだな」
「ですわよね」
笑いこけながらリュティシアが手招く。眼下には夕陽に照らされる海があった。目を細めて遠くを見やり、リュティシアはうっとりつぶやく。
「お待ちしていましたの。この景色、フェリスベルトさまにも見てほしくて」
「――美しいな」
正直に言えば、フェリスベルトは何度もこの海をながめている。夕陽も。
しかしここからの風景がこんなに綺麗で安らかに思えたことはなかった。潮を含んだ風がリュティシアの蜂蜜色の髪を揺らす。夕陽の精がそこにいるように思えた。
「港から見上げた灯台が同じ高さなんですもの……町はちょっと向こう側ですけど、のぞき込めば少しだけ見えましてよ」
「やめなさい」
ベランダから乗り出してみるリュティシアの体を、フェリスベルトはとっさに抱き戻した。腕の中に入れられてしまいリュティシアが驚く。目を見開かれ、フェリスベルトは自分のしたことにうろたえた。スルリと手をほどく。
「あ……危ないだろう」
「……ええ、そう、ですわね。ごめんなさい」
「ほら、昨日はエディが階段を落ちかけているんだよ。リュティシアまで落っこちるのは勘弁してほしい」
言い訳しながら室内を振り返るとユーニスが大きくうなずいていて、フェリスベルトは力を得た。
「もっと言ってくれと思っていそうな者もいるぞ」
「え? んもうユーニス!」
「……だ、だってだってリュティさま! エドゥアルドさまの教育にも悪いですってば!」
「あうぅ……」
それを言われると反論しにくい。口をつぐんだリュティシアに、エドゥアルドは得意げに胸を張ってみせた。
「まったくー。お母さまはやんちゃだねえ!」
義理の息子にまで叱られて、リュティシアは思いきりふくれつらをした。
✻
そろっていただいた夕食は新鮮な海の幸だった。
白ブドウ酒で蒸した魚にはネギやキノコが添えられている。ほんのり香るディルとレモンのおかげか生ぐささなどまったくなかった。エドゥアルドも嫌がることなく、ほっぺたを押さえながら味わっている。
リュティシアは町で見つけた物にもご満悦だった。散策の成果を語ったのだが、フェリスベルトはあっけにとられる。
「貝殻細工……?」
「ええ。いろいろな形があるんですもの。とても珍しくて!」
小さな貝殻をたくさんつないだ、風に揺れる飾り。大きな巻貝。貝殻から切り出して磨いた装身具。そんな物たちはガルディアでは高級品だ。なんでもない露店に普通に置いてあるのが面白かった。
(そうか……海を知らないというのは、こういうことなんだ)
リュティシアの言動は、フェリスベルトに新たな世界を見せてくれる。連れてきて良かったと、あらためて思った。
「楽しめたんだね。何か買ったかな」
「え、いいえ。そんな」
「ヴァルターに言えば、自由にしてくれてかまわなかったのに」
それは散歩中に執事からも勧められた。でもリュティシアはなんとなくためらってしまったのだ。
できれば――フェリスベルトも気に入る物が欲しい。そう思ってしまったので。




