20 涙となぐさめ
氷点下なリュティシアの視線を受けてフェリスベルトが硬直する。誰に対して「失礼」なのか、はかりかねた。
「リュ、ティ……?」
「エディのお母さまは元々あの方ですのよ。それを、壁ですって?」
「あ……いや、その」
「必要とか必要ないとか、そんな風にご家族のことを判断しますの? なら私のことも子育てに必要なくなれば離縁なさいます?」
「いやまさか、リュティをそんな」
「でもだってだって……! あの方はどんなに無念だったか……エディみたいな可愛い子、きっとお育てになりたかったでしょうに……!」
リュティシアはポロポロと泣き出してしまった。もう自分でもわけがわからなかった。
最初は不安だったのだと思う。フェリスベルトに愛されていた、今でも愛されているかもしれない女性の存在に心がかき乱された。その人を排除してリュティシアが割り込んでいいのか、自分はうまくやっていけるのか心配だった。
でもフェリスベルトがひどいことを言ったせいで全部吹っ飛んだのだ。
リュティシアは弱い者がないがしろにされるのが何より嫌い。亡くなった女性だなんて、みずからは抗弁することも叶わない究極の弱者だ。
それを「もういらない」だなんて!
「お帰りになって! 今はフェルさまとお話しできませんことよ!」
泣きながらドアを指差すリュティシアに圧倒されて、フェリスベルトはヨロヨロ追い出されていった。
✻
ぼう然と帰ってきたフェリスベルトのことを、エドゥアルドは無邪気に出迎えた。
「お父さま、お母さま元気になった?」
エドゥアルドは幼いなりに必死で考えたのだ。リュティシアが心ここにあらずになった理由、あまり遊んでくれなかったわけを。
(お母さまは、えのお母さまのことがきらいなのかな……)
だって「お母さま」が二人いるなんておかしい。たぶん。どの物語の中でも、カティアやヴァルターの家だって、母は一人だ。
リュティシアが望むなら、エドゥアルドの母はリュティシアだけでいい。絵はいらない。そう父に訴えたら、フェリスベルトはすぐにリュティシアの元へ行ってくれた。きっとこれで何もかもうまくいくと信じて待っていた。なのにどんよりと青ざめて戻ったフェリスベルトは居間のソファに崩れ落ちてうめいたのだ。
「リュティに、帰れと言われた……」
「え?」
「はあ!?」
居合わせたカティアとヴァルターが仰天して叫ぶ。どうしてそんなことになるのか。
「フェリスベルトさま、いったい何をしでかしたんですか?」
ヴァルターの言い方は主人に対して辛辣だった。だがしばらくリュティシアに接してきて、あの大らかな婚約者ならよほどのことがない限りそんなことは言わないと思えた。ならばフェリスベルトの方が何かしくじったに違いない。
頭を抱えたフェリスベルトはモゴモゴうめいた。
「しでか……いや、その」
「あ……エドゥアルドさま、あちらに行っていましょうか」
カティアが気を回す。フェリスベルトが仲直りの手段として大人の振る舞いに及んで拒否されたのかと考えたのだ。フェリスベルトは必死に否定した。
「違う! そんなことはしないぞ!」
「じゃあ何があったんですか」
ヴァルターは疲れ果てた顔だ。仕事以外は不器用な主人だと思っていたが、どうやって婚約者との間をこじらせたのか理解に苦しむ。
「……リュティがいてくれれば肖像はいらない、と伝えた」
「はあ……?」
「エディもそう言ってただろう? リュティだけでいいって」
「うん。お母さまといっぱいあそびたい」
息子を味方につけて、フェリスベルトは遠い目をした。
「だけど……『必要ないとはどういうことだ』と怒ってしまって」
「ええとリュティシアさまがおっしゃるのは、肖像画のことでございましょうか?」
ヴァルターはカティアと顔を見合わせる。そっち方面の主張がくるとは想像しなかった。フェリスベルトは目を伏せる。
「……私の言い方の問題だったんだと思う。今さら片づけた言い訳を、ちょっとしてしまってね。ずっと飾りっぱなしだったのは目に入っていなかったからだし今となっては肖像画など不必要だ、と。そうしたら『壁と同じだなんて失礼だ』『産みの母のことを不要と言うのか』と泣き出してしまって」
「泣かれたんですか!? あの方が!?」
聞かされた方は絶句する。いつもほがらかなリュティシアが涙を流すなんて想像もできなかった。
「リュティ……本当に怒っていたよ。口調が馬鹿丁寧になったからね」
フェリスベルトはしょんぼり肩を落とす。リュティシアはセミオンのことを話す時などに、とってもご令嬢な口ぶりになる。さっきもその癖が出ていた。
ということは、かなり怒っている。あるいはこちらに隔意を抱いているのか。出会ったばかりにも少しそんな風だったじゃないか。
「リュティシアさまのそんな癖まで理解なさっているのに、どうして怒らせるんですか……?」
うっかり責めてしまったカティアの言葉はフェリスベルトには厳しい見方。理解度と対人スキルは別のものなのだから。
✻
はれぼったい目を濡れた布で冷やしながら、リュティシアは思考停止していた。ソファに沈み込んだまま動けない。ユーニスはあきらめ顔で水の入った洗面器を置くと、そっと席を外してくれていた。
どうしてあんなに泣いてしまったのか。リュティシア本人もよくわからないのだった。
悲しかった。怒りを抱いた。どっちもだ。でもそれは、フェリスベルトにぶつけるべきではないもの。
「はあ……ガルディアに帰ろうかしら」
ため息にまみれた。フェリスベルトは感情的な婚約者にあきれ果てただろうし、また婚約破棄かもしれない。
ズルズルと倒れ伏して、リュティシアは拗ねる。
「もういやぁん……」
もだえながら情けない声を上げたら、表でユーニスが何か言っているのが聞こえた。リュティシアにではない。扉の外へ対応しているのだ。
フェリスベルトから何か言ってきたのかもしれない。怖くなった。冷たい縁切りの宣言とかだったらどうしよう。
「リュティさま、エドゥアルドさまですよ」
「え?」
リュティシアはあわてて起き上がる。驚いたが、本当に居間に入ってきたのはエドゥアルドだけ。カティアすら連れていなかった。
「エディ……どうしたの、ひとりで来たの?」
「うん。お母さま、ないちゃったって……」
エドゥアルドはおずおずと近づいた。ソファの隣によいしょと腰かける。そして手を伸ばすとリュティシアの頭をそうっとなでてくれた。
「お母さま、いいこいいこ」
リュティシアが泣いたと聞き、なぐさめるために抜け出してきたのだろうか。たまらなくなってリュティシアは息子を抱きしめた。
「エディ……」
「あのね、ぼくね、お母さまがいるから、えはいらないってお父さまにいったの」
小さな手でリュティシアの背中をきゅっとするエドゥアルドにハッとした。フェリスベルトがそんな風に言ったのは、エドゥアルドの言葉を受けてのものだったのか。きつい口調で追い出したことを後悔する。
でも亡くなった人のことをかばわなければとも思った。この可愛いエドゥアルドを産んでくれた人はリュティシアにとっても恩人だ。不必要なんかじゃない。
「……絵のお母さまは、エディのお母さまなのよ?」
「そうだよね。でもぼく、ルティお母さまがいい。ぎゅってできるもん」
腕の中の小さな男の子の背をリュティシアはポンポンとする。肖像画の人にはしてもらえない、優しい抱擁――エドゥアルドが求めているのはそれだった。
養育係はいても、「母」ではない。何かしら満たされずにいたエドゥアルドが望んだのはリュティシアのやわらかい腕なのだ。こんないじらしい子を置いてガルディアに帰ろうと考えたなんて、さっきの自分はなんて馬鹿だったのか。
「――もうエディったら。お母さまがいくらでもギュウッてしてあげるんだから!」
「ぼくも、むぎゅってする!」
頬ずりし合って、二人は笑った。でもそのことがエディは不思議そう。大泣きしたと聞いたのに、リュティシアはもう笑っているから。
「お母さま、げんきでたの?」
「ええ。エディのおかげね、大好きよ」
「……お父さまのことは、すき?」
あどけなく核心に切り込まれて、リュティシアは黙った。




