第9話 庭師となる未来の少年
ロイド侯爵家本邸の応接室には、重苦しい沈黙が満ちていた。
パトリシアは豪奢な一人がけの長椅子に腰掛け、手元にある領内の人事書類に目を通している。その完璧に統制された横顔には、かつて夫に向けられていた柔らかな温もりは一片も残っていない。
その対面に立つウィリアムは、今にも掴みかからんばかりに顔を火照らせ、拳を握りしめていた。
「パトリシア、本気なのかい!? シリルを……まだ三歳のあの子を、将来は庭師の見習いとして登録したというのは!」
パトリシアは書類から視線を上げることもせず、ただ淡々と、めくる紙の音だけを室内に響かせた。
「ええ。先日申し上げた通りです。すでに庭師頭には話を通してあります。シリルが十歳になった段階で、正式に雇い入れる手筈になっています」
「正気か!? あの子には私の血が流れているんだぞ! 貴族の血を引く男児を、土にまみれて働く庭師などという下級の使用人にするというのか! これはあんまりだ、嫌がらせにも程がある!」
ウィリアムの怒号が響く。だが、その言葉が放たれた瞬間、室内に控えていた老執事や侍女たちの視線が一斉に、ナイフのように鋭く尖った。
この屋敷で働く使用人たちは、全員が厳しい選考を勝ち抜き、己の仕事に誇りを持って侯爵家に仕えているプロフェッショナルだ。庭師とて、広大な領地と庭園を維持するための高度な技術職であり、侮られていい存在ではない。それを「下級の使用人」と切り捨てたウィリアムの無知と傲慢さに、使用人たちの目は一様に、軽蔑を超えた冷徹さに染まっていく。
パトリシアはゆっくりと書類を閉じ、机に置いた。その緑の瞳が、真っ直ぐに夫を射抜く。
「ウィリアム様。何か勘違いをされているようですが――《《使用人の子》》を使用人として扱って、何が悪いのですか?」
「なっ……!」
「シリルの母親であるバレリーは、かつて貴方の実家で雇われていた侍女、つまり使用人です。我が家がその子を引き取るというのであれば、使用人の子として扱うのは至極当然の判断です。それとも、私が不貞の証拠である子供を、我が物顔でロイド家の縁者に加えるとでもお思いでしたか?」
一片の感情も交えない、冷徹なまでの正論。
ウィリアムは言葉に詰まり、額に汗を浮かべながら、なおも往生際悪く追い縋った。
「そ、それなら……せめて、しかるべき学園に通わせて、将来は私の侍従にするというのはどうだ! それなら使用人としても体裁が保てるし、私の側で教育を施すこともできる!」
「学園、ですか」
パトリシアの唇が、哀れみを孕んだ小さな弧を描いた。
「貴族の子弟が通う学園の学費が、どれほど高額かご存じないのですか? それはすべて、我がロイド侯爵家の領民が納めた血税から支払われるものです。なぜ、貴方の不貞の尻拭いのために、領民の富を分け与えねばならないのですか。それに、学園は身分が厳格に重んじられる場所。平民の隠し子が紛れ込めば、周囲からどのような扱いを受けるか、少し頭を動かせば分かりそうなものですが」
「それは……僕が、僕の給費から払えば……」
「貴方の給費は、ロイド侯爵家の婿養子としての役職手当です。つまり、私の許可なく一銭たりとも動かせないお金ですよ」
ウィリアムの顔がみるみる青ざめていく。彼は、自分がパトリシアの慈悲というぬるま湯の中でしか生きられない無力な存在であるという現実を、これでもかと突きつけられていた。
パトリシアは立ち上がり、冷たく言い放った。
「これ以上、その《《汚れた血》》に特権を求めるのであれば、今すぐ《《三人で》》この屋敷を出て行きなさい。市井の食堂で、再び泥にまみれて暮らすといいわ」
ウィリアムは返す言葉もなく、逃げるように応接室を飛び出していった。
――その数時間後。
本邸の離れでは、不安に胸を焦じらせるバレリーが、戻ってきたウィリアムの服にすがりついていた。
「ウィリアム様……シリルを庭師にするというのは本当なのですか? 奥様は、やはり私たちのことがお許し頂けないのですね……。私のせいで、シリルまで辛い目に遭うなんて……っ」
涙を流して悲劇のヒロインのように嘆くバレリー。その横では、三歳のシリルが何も分からぬまま、母親の涙を不思議そうに見つめている。
ウィリアムは、パトリシアに完膚なきまでに論破された惨めさを隠すように、バレリーの肩を強く抱き寄せた。そして、根拠も何もない、浅はかな笑みを浮かべてみせたのだ。
「大丈夫だ、バレリー。心配しなくていい。パトリシアは今、少し感情的になっているだけなんだ。僕に任せてくれれば、すべて上手くいくから。シリルを絶対にそんな目に遭わせたりしない。僕が、必ず君たちを守ってみせるよ」
「ウィリアム様……っ」
バレリーは安堵したように彼の胸に顔を埋めた。
ウィリアムはその温もりに満足感を覚え、自分が「家族を救うヒーロー」であるかのような錯覚に浸っていた。
だが、彼は気づいていない。
その中身のない安請け合いが、パトリシアの冷徹な計画の前でどれほど無力であるか。そして、自分が優しさに酔いしれているその裏で、パトリシアが消えない悲しみと罪悪感を抱えながら、彼のすべてを根こそぎ奪い去るための「本物の血の決断」を下したということを。
離れの窓から見える本邸の窓は、夜の闇の中で、冷たく、静かに光を放っていた。




