第10話 密会と懐妊
二度目の密会は、最初の夜からちょうど一ヶ月後のことだった。
王都郊外、ロイド侯爵家別邸は、満開の盛りを過ぎた薔薇の香りが漂い、月の青白い光が差し込んでいた。
シルクの寝着に身を包んだパトリシアは、ベットの上で静かに自分の腹部に手を当てていた。
まだ、医師の診断を受けたわけではない。お腹が膨らんでいるわけでも、体に劇的な変化が起きているわけでもなかった。しかし、彼女の直感が、確信を持って告げていた。
(……ここに、私の子がいるわ)
なぜかは分からなかった。けれど、確かに新しい命の灯火が、自分の内側で静かに灯ったのだという絶対的な確信があった。
その確信は、パトリシアの胸に、言葉にできないほど複雑な感情を湧き上がらせた。
不貞を働いた婿養子のウィリアムではなく、しかるべき相手との間に宿した、ロイド侯爵家の真なる跡継ぎ。これで、あの不潔な愛人の血に家門を汚される未来は完全に回避された。平民の愛人が産んだ不義の子など、そもそも婿入りした男の血筋でしかない。そんなものが侯爵家の嫡子になり得ぬことなど、貴族の法としては当然の帰結だ。統治者としては、この上ない勝利のはずだった。
しかし、同時に、胸を締め付けるような切なさと罪悪感が彼女の喉元までせり上がってくる。
この子は、自分がかつて十年の長きにわたって深く愛し、信じ抜いていた夫の子ではない。家門を守るという冷徹な目的のために、夫の実兄であるオリビエを抱き込んで宿した、背徳の落とし子なのだ。
(私はあの男を叩き出した後は……この子を世間の邪推から家門を守る『盾』とし、ロイド侯爵家の正統なる後継者として堂々と育て上げてみせる)
愛した男に裏切られ、自らもまた最悪の裏切りをもって応じる。その報いが、この小さな命なのだと思うと、パトリシアは冷え切った指先で、ただ愛おしく、そしてひどく哀しく、自らの腹部を愛撫することしかできなかった。
カチリ、と静かに寝室の扉が開く。
闇を纏って現れたオリビエは、ベッドの上のパトリシアを見るなり、その鋭い眉を微かに動かした。彼女が自らの腹部に手を当て、何とも言えない悲痛で、それでいて慈愛に満ちた表情を浮かべているのを見逃さなかったからだ。
「――パトリシア」
オリビエはゆっくりとベットへと歩み寄り、パトリシアの前に跪いた。
彼は彼女の手の上から、自らの大きな熱い手をそっと重ねる。
「……そうか。もう兆しがあるのか」
低く掠れた声に、隠しきれない歓喜の震えが混じる。
パトリシアは拒まず、ただ静かな緑の瞳でオリビエを見つめ返した。
「ええ。まだ確証はございません。ですが、分かるのです。月に一度の契約は、どうやらすでに終わりのようですわ、オリビエ伯爵」
「そうか……。それは、喜ぶべき結果なのだろうね……。おめでとう」
オリビエは押し殺したような息を吐き出し、パトリシアの手に上から、彼女の腹部にそっと額を当てた。
その瞬間、オリビエの脳裏を駆け巡ったのは、全能感にも似た圧倒的な勝利の余韻だった。自分が長年、狂おしいほどに渇望しながらも、決して手に入らなかった至宝・パトリシア。彼女の身体に、いま、自分だけの血が宿ったのだ。
(ウィリアム……お前は何も知らぬまま、侯爵邸の離れで『家族の真似事』に溺れておればいい)
弟は、パトリシアの愛を失い、ロイド侯爵家の女当主の夫という座を失うだろう。そしていま、次期侯爵たる後継者の父親という座すらも、実の兄によって根こそぎ奪われたのだ。これ以上の復讐が他にあるだろうか。
オリビエは顔を上げ、パトリシアの頬を両手で優しく、しかし狂気的なまでの執着を込めて包み込んだ。
「約束しよう、パトリシア。この子は、私が命に代えても守る。ラヴァル伯爵家のすべての権力と、私の生涯を賭けて、このロイド家の正当なる跡継ぎを、裏から支え続けよう」
「……おやめください、オリビエ様。これは、取引です」
パトリシアは消えない罪悪感に身を震わせながら、彼の胸を弱々しく押し返そうとした。
けれど、オリビエは愉悦を含んだ恍惚の表情で、その柔らかな身体を強く抱きしめ、耳元で甘く囁いた。
「取引だろうと、背徳だろうと構わない。君がウィリアムへの愛の死を悼み、どれほど悲しみに暮れようとも、この子の半分は私の血だ。貴方と私は、この命が尽きるまで、決して解けない血の鎖で結ばれたのだから」
パトリシアは、オリビエの腕の中で静かに目を閉じた。
本邸の離れでは、今夜もウィリアムが「僕が守るから大丈夫だ」と、何の中身もない安請け合いをして愛人を安心させているのだろう。
その浅はかな優しさの裏で、自分たちの未来が、本物の「血の決断」によって完全に終わったことも知らずに。
パトリシアの頬を、一筋の冷たい涙が伝い、オリビエの肩に染み込んで消えた。
悲しみと罪を孕んだ夜は、声もなく深く沈んでいった。




