第11話 偽りの幸福
ロイド侯爵家本邸の主寝室に、医師の厳かな声が響いた。
「おめでとうございます、ウィリアム様。パトリシア侯爵がご懐妊です。計算上、妊娠六週目という時期に入っておりますな」
「え……?」
ウィリアムは一瞬、自分の耳を疑い、それから爆発するような歓喜に顔を火照らせた。
「本当か!? パトリシアが、《《私の子》》を……!」
ベットの上で身を起こし、静かにクッションに背を預けているパトリシアは、歓喜に震える夫を、冷え切った緑の瞳で見つめていた。その手は、愛おしさと生涯消えない背徳感を隠すように、そっと毛布の下でお腹に当てられている。
普通に考えれば、あり得ないことだった。
一ヶ月前、バレリーとシリルをこの屋敷の離れに住まわせて以来、パトリシアはウィリアムを完全に拒絶していた。同じベットに入るどころか、指一本触れさせていない。
それなのに、ウィリアムの表情には、一抹の疑念すら浮かんでいなかった。なぜなら、彼の脳内で、都合のいい「記憶の改ざん」が行われていたからだ。
バレリーたちを連れてくる直前――すなわち二ヶ月前まで、ウィリアムとパトリシアは、円満な関係だった。彼は自然とパトリシアとベットを共にしていた。医師の告げた「妊娠六週目」という時期は、計算上、ギリギリその「最後にベットを共にした時期」と重なる。
(ああ、あの最後の夜、最後に愛し合ったあの時に、奇跡的に授かってくれていたんだ!)
ウィリアムの頭は、一瞬でその都合の良い結論へと飛びついた。
彼にとって、パトリシアが自分を拒絶しているのは「愛人と隠し子が見つかって一時的に怒っているから」に過ぎず、夫婦としての繋がりが完全に切れたとは夢にも思っていなかった。それどころか、彼はこの懐妊を、神が自分に与えてくれた「救い」だとさえ捉えていた。
「パトリシア! 本当によかった……!」
ウィリアムはベットの側に駆け寄り、パトリシアの手を握ろうとした。パトリシアが不快そうにその手をすっと引いても、彼は「まだ怒っているんだな」と苦笑いするだけで、全く気にしていない。
「君が跡継ぎを産んでくれれば、私の『不始末』だって、みんな大目に見てくれるはずだ。シリルは庭師の見習いでも構わない。あの子には私が個人的に、父親としていくらでも援助をしてやれる。ロイド家には本物の跡継ぎができて、離れには私を慕う可愛い家族がいる……。ああ、なんて素晴らしいんだ」
ウィリアムの口から出たのは、あまりにもおめでたく、独りよがりな言葉だった。
彼は本気で、パトリシアを愛しているからこそ、この懐妊によって壊れかけた「愛する妻との家庭」が元通りになると楽観視していた。パトリシアがどれほど傷つき、身を切るような思いでその愛を殺したかも知らず、ただただ幸福な未来を夢見ている。
その純粋なまでの言葉を背後で聞いていた老執事や侍女たちの目は、もはや完全に凍りついていた。
別の女に子供を作っておきながら、女侯爵たる正妻の前で「私たちの愛の結晶だ」と無邪気に喜んでみせる男の、あまりの都合の良さと浅ましさに、屋敷中の空気が侮蔑で満ちていく。
「……嬉しそうですわね、ウィリアム様」
パトリシアは、感情の消えた声で呟いた。
「当たり前じゃないか! 君と私の、世界で一番大切な子供なんだから。これからは私も、もっと君を労るよ。バレリーのところへ行く回数も、極力減らすと約束する。君を不安にさせたくないんだ」
彼は愛する妻を気遣うように、心からの優しい微笑みを浮かべた。
その澄んだ瞳を見上げながら、パトリシアの胸を悲しみと、それを塗りつぶすような決意が満たしていく。
(ウィル、貴方は本当に、どこまでも愚かで、哀れな人ね……)
この男は、私を愛していると言いながら、私を裏切った。そして今、自分が父親になれたと信じ込み、偽りの幸福に浸っている。
けれどそのお腹の中にいる子は、彼が劣等感を抱き続けてきた実の兄・オリビエの血を引く子供なのだ。
パトリシアは、ウィリアムに見えないよう、毛布の下で静かにお腹を撫でた。
生涯消えない罪の意識は確かにあるが、目の前で無邪気に笑う夫への復讐の歯車は、もう誰にも止められない。
「ええ、そうですね。どうぞ、離れの彼女たちにも、この『喜ばしい報せ』を伝えてあげてくださいませ」
「ああ! きっとバレリーも、私たちの幸せを祝福してくれるよ!」
ウィリアムは弾んだ足取りで、愛人の待つ離れへと向かっていった。
最愛の妻への純粋な愛と、取り返しのつかない最悪の無知を抱えたまま、 婿養子の偽りの幸福は、本人の無知のまま頂点に達していた。




