第8話 背徳の夜
その夜、王都の侯爵家本邸にある離れでは、ウィリアムが満ち足りた微笑みを浮かべていた。バレリーが不器用ながらも心を込めて作った菓子を囲み、三歳のシリルがその小さな口を動かして無邪気に笑う。
「おとうたま、これ美味しい!」
「そうか、シリル。たくさんお食べ。……ああ、やはり家族で囲む食卓は温かいな」
ウィリアムは、パトリシアに言い渡された「接触禁止」の命令を完全に無視していた。彼の中では、これは冷酷な妻に対する「子の父親としてのささやかな反抗」であり、不幸な親子を守るための「正義の行動」だった。
本邸で一人、冷たいベッドに眠るであろうパトリシアの孤独など、彼の脳裏には一瞬たりとも浮かばなかった。
――同じ夜。
まるで二人の罪を隠すような闇夜の中、王都郊外にある薔薇の香りに満ちたロイド侯爵家別邸は、ひっそりとしていた。ただ、遠くでフクロウが鳴く声だけが、二人の不貞をなじるように低く響いている。
王都の喧騒から隔絶されたその寝室は、重厚なカーテンによって外界から遮られ、ただ蝋燭の炎だけが、部屋の輪郭を浮かび上がらせていた。
シルクの寝着を纏ったパトリシアは、ベッドの端に座り、静かにその時を待っていた。
心臓の鼓動は驚くほど冷静だった。夫への愛が死に絶えた今、この身体はただ、ロイド侯爵家という歴史ある家門を守るための「器」に過ぎない。
微かな衣擦れの音と共に、寝室の扉が開いた。
現れたのは、夜の闇をそのまま衣服にしたような黒を纏った男――オリビエ・ラヴァル伯爵。
「――お待たせしてしまったかな、パトリシア様」
低く、どこか掠れた声が室内に響く。
オリビエは音もなく歩み寄り、パトリシアの前に立つと、その黒い瞳で彼女のすべてを見透かすように見つめた。その眼差しには、長年檻の中に閉じ込められていた飢えた獣のような、強烈な執着と情熱がギラついている。
「いいえ。……よくおいでくださいました、オリビエ伯爵」
パトリシアは感情を排した声で応じた。
「本当に、良いのだね? 今ならまだ、引き返せるよ」
オリビエは試すように、彼女の白く細い顎を長い指先で掬い上げた。
「私をこの寝室に招き入れるということは、貴方の言う『高潔な女侯爵』の仮面に、生涯消えない背徳の傷を刻むということだ。私の種を宿し、弟ウィリアムの子供として育てる……その業を背負う覚悟が、本当に貴方にあるのかな?」
「何を今更」
パトリシアはオリビエの手を拒むことなく、むしろその冷たい指先に自らの頬を寄せた。彼女の緑の瞳には、一切の迷いも恐怖もない。あるのは、氷のような決意だけだ。
「あの男は、今この瞬間も、私の尊厳を踏みにじりながら愛人ごっこに興じています。あんな汚れた血を、先祖が代々命懸けで守ってきたロイド家に残すくらいなら、私は悪魔にだって魂を売りましょう。……貴方は、怖気付きましたか?」
パトリシアの挑発的な言葉に、オリビエの胸の奥で、何かが決定的に弾けた。
「怖気付くだと? まさか。私はこの日を、十年前から夢にまで見ていたのだから」
オリビエは押し殺したような声を漏らすと、パトリシアの身体をベッドへと押し倒した。
重ねられた肉体の熱。ウィリアムの、どこか顔色を窺うような愛撫とは違う。オリビエのそれは、容赦がなく、けれどパトリシアという存在を骨の髄まで狂おしく求めているという、圧倒的な支配の熱を持っていた。
パトリシアは、ただ、視界の滲む天井をじっと見つめていた。不思議なほど、何も感じなかった。怒りも、憎しみも、復讐の昂りさえも……。
ただ、自分が遠くへ沈んでいくような感覚だけがあった。涙は流さなかった。けれど、心の奥底は、凍えるような暗い嵐が吹き荒れていた。
(どうして、私は今、この場所にいるのだろう……)
諦めたつもりだった。すべてを割り切り、女侯爵としての責務のために動いているのだと、自分に言い聞かせていた。そう決めたはずなのに、胸の奥では何かが静かに悲鳴を上げていた。
いざ夫以外の男性の体温が肌に触れた瞬間、言葉にできないほどの悍ましさと、底なしの罪悪感が彼女の全身を苛んだ。
かつて学園の木漏れ日の中で、はにかみながら自分に花を差し出してくれた、あの優しいウィリアム。結婚してからの日々、授からない子供を待ち侘びながら、二人で手を繋いで眠った愛おしい夜。
パトリシアが守ろうとした「幸せな記憶」は、すべて別の女と子供に向けて消費されていたのだ。
どれほど深く愛していただろう。どれほど彼を信じていただろう。
その愛が深かったからこそ、いま、こうして夫の実兄と閨を共にしているという事実が、彼女の尊厳を内側から惨たらしく引き裂いていく。
「……っ……」
パトリシアは唇を噛み締め、嗚咽が漏れるのを耐えた。
心にあるのは、浅ましい愉悦などではない。ただただ、やり場のない深い悲しみと、身を切られるような悔しさだけだ。
ウィリアムを心から愛していたパトリシアという一人の女性は、今夜、名実ともに完全に殺されたのだ。この血の決断の代償として、彼女は生涯消えない罪の意識を背負い続けることになる。
(貴方は離れで、温かいスープを飲みながら、家族ごっこを楽しんでいるのね、ウィル……。私の悲しみを、貴方は何も知らないまま……)
「パトリシア、私を見ろ。他の男の名を想うな」
オリビエが彼女の耳元で、嫉妬を孕んだ呪文のように囁き、彼女の唇を深く塞いだ。
その背徳の味は、驚くほどに苦く、そしてどこまでも冷たかった。
窓の外では、夜風が薔薇の花びらを無残に散らしていく。
ウィリアムが「家族ごっこ」に浸るその裏で、パトリシアは消えない悲しみと罪を抱きしめたまま、背徳の夜の闇へと深く、深く沈んでいった。
月に一度。半年間だけの、冷徹な契約。
そこに愛などない。これは復讐であり、家門の防衛であり、何よりウィリアムに対する最悪の報復だ。




