第7話 オリビエの歪んだ恋
ラヴァル伯爵家の執務室で、オリビエ・ラヴァルは手の中のワイングラスを静かに揺らしていた。
月の光が、彼の鋭い貌を冷たく照らし出す。彼の脳裏にあったのは、先ほど薔薇園で交わした、あの美しくも悍ましい「契約」の余韻だった。
「托卵、か……。くはは、よくぞ言ったものだ、パトリシア」
オリビエの唇から、低く掠れた笑いが漏れる。
彼にとって、実の弟であるウィリアムという存在は、物心ついた頃から不快の象徴でししかかなかった。
ラヴァル伯爵家には、かつてヘンリーという二歳上の長男がいた。
ヘンリーは心臓の病を患い、常にベッドの上で暮らしていた。そんな病弱な兄のために、両親が「慰め相手」として雇い入れたのが、貧乏男爵家の次女であるバレリーという侍女だった。
オリビエは幼心に、あの女がひどく嫌いだった。
いつも寂しげな、悲劇のヒロインのような顔をして、病床の長兄に寄り添う女。自分の意志を持たず、ただ環境に流されるまま、哀れみを乞うように生きるその姿は、子供のオリビエの目にも酷く空虚で、不気味に映った。
やがて長兄が早逝すると、その歪みは弟のウィリアムへと引き継がれた。
当主である父の命令により、バレリーはそのまま、二歳下の弟ウィリアムの「閨係」としてあてがわれたのだ。
「可哀想な僕を慰めてくれる優しいお姉さん」
そんな安易な役割に依存し、身を委ねる弟の浅ましさを、オリビエは心底から軽蔑していた。だからこそ、ウィリアムが十八歳でラヴァル家を出る際、オリビエは当主として即座にバレリーを解雇し、商家の後妻として追い出したのだ。これで、あの不潔な連鎖は断ち切れたはずだった。
貴族とは、私情よりも家門の繁栄を最優先にすべき生き物だ。
現に、オリビエ自身は家督を継ぐと決定した後、伯爵家のために親の決めた政略結婚を粛々と受け入れた。妻との間に燃え上がるような愛こそなかったが、互いに貴族としての責務を理解し、尊重し合っている。すでに一男一女の熱い子宝にも恵まれ、ラヴァル伯爵家の後継者問題は微塵の揺らぎもなく安泰そのものだった。
それなのに。
弟は、名門ロイド侯爵家に入り婿し、社交界の至宝たるパトリシアという至高の妻を得ながら、まだあの泥の中に咲く空虚な花を求めていたという。
偶然再会した元侍女が哀れだからと市井に囲い、あまつさえ子を成し、それを「正義」だと抜かす。
「どこまで私の神経を逆撫出すれば気が済むのだ、あの無能は」
オリビエの黒い瞳に、激しい嫌悪と怒りが宿る。
弟への失望は、いまや殺意に近いものへと変わっていた。
なぜなら、ウィリアムが泥に塗れて貪っていたその裏で、オリビエは長年、決して手の届かない一輪の黄金の花――パトリシアを、狂おしいほどに渇望し続けていたからだ。
出会いは、弟の見合いの席だった。
金髪に緑の瞳。凛とした佇まいと、若くして家門を背負わんとする聡明な美しさ。
(もし、長兄が健康で、彼が嫡男として認められていれば……。次男の私こそが、彼女の婚約者となれたかもしれないのに)
その願いは叶わず、パトリシアは「容姿だけが自慢の無害な三男」ウィリアムを選んだ。
学園時代の三年間、二人が仲睦まじく歩く姿を見るたびに、オリビエの胸の奥では黒い嫉妬の炎が身を焼き尽くしていた。
それなのに、あの愚弟は、その至宝を隠し子という泥で汚した。
「……だが、神は私を見捨てなかったようだ」
オリビエはワインを喉に流し込んだ。
パトリシアから届いた手紙。そして、薔薇園での密会。
夫への愛を完全に殺し、冷徹な復讐者へと覚醒した彼女は、オリビエに「托卵」を提案した。
『私と、子を成していただきたいのです』
その言葉を聞いた瞬間、オリビエの全身の血が歓喜で沸騰した。
我が家の後継者はすでに盤石。失うものは何もない。あるのは、弟への最悪の優越感と、長年渇望してやまなかったパトリシアを、彼女自身の望みによってこの腕に抱くことができるという、至上の幸福だけだ。
月に一度。指定された日に、彼女の別邸へと通う。
愛などない、ただ血を塗り替えるための背徳の契約。だが、オリビエにとっては、それこそがどんな甘い愛の囁きよりも甘美な蜜の味だった。
「ウィリアム。お前は何も知らぬまま、離れで愛人ごっこに興じておればいい」
オリビエは空になったグラスを机に置くと、不敵な笑みを浮かべた。
「お前が汚したパトリシアの身体も、ロイド侯爵家の未来も、すべてこの私に差し出すのだ。……この秘密は、喜んで墓場まで持っていってやる」
義兄オリビエの、長年抑え込んできた歪んだ恋情が、ついに暗い牙を剥いた。




