第4話 泥に咲く花
ロイド侯爵家の敷地の最果て、鬱蒼とした木々に囲まれた離れの別邸は、本邸の華やかさとは切り離された静けさに包まれていた。
パトリシアは、数人の従者を従え、その重い木製の扉を叩いた。
迎えたのは、数日前までの質素な衣服を脱ぎ捨て、上質な、けれど地味な仕立てのドレスに身を包んだバレリーだった。
「……あ、奥様……っ」
バレリーは怯えたように目をみはり、すぐに床へ膝をつこうとした。その動きはどこまでも受け身で、哀れみを誘うための行動のように見えた。
「立ちなさい。酷い扱いをするために来たわけではありません」
パトリシアは冷淡に言い放ち、用意させた椅子に腰を下ろした。
部屋の隅では、三歳になる少年シリルが、小さな椅子に座って小首を傾げながら二人の様子を見つめている。
改めて見ると、シリルは恐ろしいほどウィリアムに生き写しだった。茶色の柔らかな髪に、潤んだオリーブ色の瞳。幼いながらも、将来は誰もが振り返るような美男子になることが約束された、整った容姿。
パトリシアにとっては、それこそが夫の裏切りの、生々しい証拠だった。
パトリシアは視線をバレリーに戻し、本題を切り出した。
「単刀直入に言います。バレリー、貴方がこの屋敷を出ていきたいと言うのなら、私はそれを全面的に支援します。市井に小さな家を買い、貴方が自立できるだけの仕事を手配し、当面の生活費も一括して保障しましょう。どうしますか? この侯爵家の片隅で、他人の目を盗むような不毛な生活を続けますか?」
これ以上ない破格の提案だった。夫の愛人と隠し子に対して、考えられないほどのあり得ない甘い対応。この場で闇に葬ることもできるが、子供に免じて、今回だけは命を救ってやるというのだ。
侯爵家の財力をもってすれば、市井で一介の平民として生きていくには十分な生活を約束できる。普通の人間であれば、誇りを取り戻すために、そして我が子の未来のために、飛びつくはずの提案だ。
しかし、バレリーは、ただ困惑したように長い睫毛を伏せ、涙を溜めた目で自分の膝を見つめるだけだった。
「……私は、パトリシア様と違い、何も持たぬ弱い女です」
か細い、消え入りそうな声が室内に響く。
「学問も、誇れるような技術もございません。ただ、流されるままに生きてまいりました……。この子のためにも、父親であるウィリアム様のそばにいられたら、それだけで私は幸せなのです。他には、何も望みません……」
パトリシアの胸の奥で、静かな嫌悪が広がった。
この女は、「私は弱い」という言葉を、あらゆる責任から逃れるための盾にしている。外で生きていく術を持たず、この屋敷を離れれば明日にも路頭に迷うという恐怖から、自分で決断することを放棄し、傷つくことを恐れ、ただ与えられる環境に寄生しようとしているのだ。
「……そう。たとえ、一生、日陰の身でも?」
「はい。穏やかに暮らせるだけで、私どもは幸せでございます」
「その子までもが、日陰で生きる身になっても?」
「……はい」
バレリーは、悲劇のヒロインのような美しい微笑みを浮かべた。
その歪んだ「足るを知る美徳」の裏にあるのは、底なしの怠惰と空虚だ。彼女は自分の平穏のために、たとえ我が子の未来が閉ざされようと、パトリシアの尊厳が踏みにじられようと微塵も気にかけていない。悪気がないからこそ、その存在自体が極上の悪意だった。
パトリシアは冷え切った息を吐き出し、視線をシリルへと移した。
少年は、大人の会話の意味が分からぬまま、無邪気な瞳でパトリシアを見つめている。
「……シリル。あなたは、ここでの暮らしが好き?」
問いかけると、シリルは嬉しそうに顔を輝かせ、弾んだ声で答えた。
「うん! 温かいご飯が3回も食べられて、綺麗なお布団で眠れるから好き! あと、とうたまにも会えるし!」
「シリルっ、ダメよ!」
バレリーが慌てて子供の口を塞ごうとしたが、もう遅かった。
パトリシアの緑の瞳が、すうっと細められる。
「お父様に、会える?」
あの日、確かにパトリシアはウィリアムに「離れへの接近禁止」を言い渡したはずだった。使用人たちからの報告で、すでに彼が訪問していることは把握していたが、こうして改めて子供の口から裏付けとなる事実が語られる。ウィリアムは確かに「契約」を承諾したはずだ。それなのに約束を反故にし、夜陰に乗じて離れへと通い詰めている。思った通りの情けない男だ。
バレリーは困ったような、申し訳なさそうな表情を浮かべた。しかし、嘘を吐いてウィリアムを庇おうともせず、かといってシリルを厳しく咎めようともしなかった。ただ、起きてしまった事実に身を委ね、嵐が過ぎ去るのを待つだけ。
「そう。ウィリアム様は、ここへ通っていらっしゃるのね」
パトリシアは静かに立ち上がった。
悲しみはなかった。あるのは、かつて最愛だった夫への、底知れない諦めと呆れだけだ。
「よく分かりました。貴方はどこまでも『流されるだけ』の無力な女。そしてウィリアム様は、その無力さに群がる、寂しがり屋の羽虫」
パトリシアはバレリーを見下ろし、容赦のない、けれど静かな怒りを告げた。
「貴方たちだけが、幸せな家族でいられると思わないことね」
その言葉の意味を、バレリーは理解できなかったのだろう。ただ怯えたようにシリルを抱きしめるだけだった。
離れを出たパトリシアは、見上げた青空の眩しさに目を細めた。
本邸へ戻る道すがら、彼女は背後に控える執事に命じた。
「ウィリアム様が離れに通った記録は、すでに記録してあるわね? すべて分単位で残しなさい。使用人たちからの報告も、すべて書面で提出させなさい。……それから、彼が契約を破った『証拠』として厳重に保管すること。いいわね」
パトリシアは、胸の奥で冷たく燃える炎を感じていた。
「明日の夜、ラヴァル伯爵家からオリビエ様が到着されるわね。薔薇園の東屋に、最上のワインを用意して」
パトリシアの足取りは、昨日よりも遥かに力強く、冷徹だった。




