第5話 女侯爵の仮面
ロイド侯爵家の本邸にある朝食の間は、いつも通りの完璧な調度と洗練された空気に満ちていた。しかし、食卓を挟んで向かい合うパトリシアとウィリアムの間に流れる空気は、触れれば指が切れそうなほどに冷え切っている。
給仕にあたる侍女をはじめ、控える使用人たちの動きには寸分の狂いもない。だが、その視線は一様に、ある一点――主人の席に座るウィリアムへと、鋭く冷ややかに注がれていた。
「パトリシア、よく考えてほしい。シリルをいつまでも離れに隠しておくわけにはいかないだろう」
ウィリアムは銀のナイフを皿に置き、さも社交界の行く末を案じるような、もっともらしい顔で切り出した。
「もうすぐ夏の夜会シーズンが始まる。社交界への体面というものがあるだろう? 我が家に男児がいるという噂はすでに領民の間からも漏れ聞こえている。ならばいっそのこと、シリルを私の『嫡子』として正式にロイド侯爵家に登録し、社交界にお披露目すべきだ」
パトリシアは、紅茶のカップをソーサーに静かに戻した。カチリ、と硬質な音が室内に響く。
「……嫡子、とおっしゃいましたか? ウィリアム様」
「そうだ。子供に罪はないだろう? 彼には私の血が、高貴な血が流れているんだ。しかるべき教育を施し、ロイド侯爵家の正当な跡継ぎとして育てるのが、親としての、そして貴族としての義務じゃないか」
ウィリアムのその言葉が放たれた瞬間、室内の温度がさらに数度下がったのを、パトリシアは肌で感じた。
背後に控える老執事の眉が微かにピクリと動き、侍女たちの視線が文字通り氷のように凍りつく。
彼らは全員、知っているのだ。
ロイド侯爵家の「嫡子」という立場が、どれほど重く、血を吐くような努力の果てに維持されるものであるかを。
一人娘として生まれたパトリシアは、幼い頃から周囲の令嬢が人形遊びやお茶会に興じている間も、一族の領政を学ぶために書斎に引きこもっていた。分厚い法経書を暗記し、領地の収支決算書を血眼になって確認し、泥にまみれて領地視察へ赴く父に同行した。
夜会で見せる美しい微笑みの裏で、彼女がどれほどの孤独と重圧を背負い、統治者としての責務を果たしてきたか――長年彼女を支えてきた使用人たちは、そのすべてを血の滲むような記憶として共有していた。
それを、市井で不貞の末に産ませた、まともな教育も受けていない三歳児を、ただ「自分の血を引いているから」という安易な理由で同じ地平に立たせようというのだ。
「ウィリアム様。貴方は『嫡子』という言葉の意味を、根本から履き違えておいでです」
パトリシアの声は、静かだが、腹の底に響くような威厳に満ちていた。
「ロイド侯爵家の嫡子とは、ただ血が繋がっていれば名乗れるような、安い称号ではありません。この広大な領地と、そこに暮らす数万の領民の命を背負う覚悟を持つ者の名です。それを、平民の食堂で泥にまみれていた子供に、明日から名乗らせると? 社交界が、ロイド家がそれを許すと本気でお思いなのですか」
「君はそうやって、いつもシリルを、バレリーを蔑む!」
ウィリアムが声を荒らげ、テーブルを叩いた。
「身分がそんなに大事か! 愛がなければ、家族の絆がなければ、どれほど立派な家門でもただの空箱だ! シリルは純粋で、私を父親だと慕ってくれている。君が子供を授かれない以上、私の息子を跡継ぎにするのが最も合理的だろう!」
パトリシアは、夫の歪んだ顔をじっと見つめた。
彼は気づいていない。自分がどれほど浅ましく、無知な暴論を吐いているか。そして、その暴論によって、自分の足元を支える使用人たちから、完全に「主人」としての資格を剥奪されたことに。
チラリと見えた執事の目は、もはや人間を見るものではなかった。ただの、屋敷に紛れ込んだ不潔な害獣を見る目だった。学園時代に「優しく誠実な青年」と見えていたものは、単に何の責任も背負わずに済む環境がもたらした、薄っぺらい仮面に過ぎなかったのだ。
「……そう、ですか」
パトリシアの胸の奥で、最後に残っていた細い糸が、ぷつりと音を立てて切れた。
悲しみも、裏切られたという怒りすらも、綺麗に霧散していく。
ただの無。完全なる愛の死だった。
「私の不徳で、未だ跡継ぎを授かれぬことは認めましょう。ですが、ロイド侯爵家の血が汚れることは、私が決して許しません」
パトリシアは立ち上がり、すっと背筋を伸ばした。その姿は、一人の傷ついた妻ではなく、冷徹な一国の統治者――「女侯爵」そのものだった。
「これ以上、そのお話をされるのであれば、社交界へ体面を取り繕う前に、貴方の籍をラヴァル伯爵家へお戻しいたします。……シリルは、ロイド家の庭師の見習いとして登録しました。汗を流して働く喜びを教えることこそ、我が家が与えられる最大の『慈悲』です」
「庭師だと!? 僕の息子を使用人として扱うというのか!」
「それでは、みんなまとめて今すぐ出て行っていただきましょうか?」
毅然としたパトリシアの宣告に、ウィリアムは息を詰まらせ、言葉を失った。
パトリシアは彼に一瞥もくれず、朝食の間を後にした。
廊下に出た彼女の背後で、老執事が静かに頭を下げる。
「奥様。今夜のオリビエ様との晩餐の準備、すべて滞りなく進んでおります」
「ええ、ありがとう」
女侯爵の仮面の裏で、パトリシアは仄暗い歓喜に身を震わせた。
ウィリアムが望む「血の継承」は、間もなく別の形で叶えられる。彼の最も憎む、実の兄の手によって。




