第3話 愛の処刑
愛が死んだ後の処理は、驚くほど事務的で、そして迅速だった。
夫のウィリアムが、離れの別邸で「可哀想な親子」に付き添い、擬似家族の温もりに酔いしれているその夜。パトリシアは一睡もすることなく、ロイド侯爵家が抱える隠密調査員――通称『影』を呼び出していた。
翌日、パトリシアはウィリアムを本邸の書斎へ呼び出し、一枚の書面を突きつけた。
「……パトリシア、これは何だい?」
ウィリアムが困惑したように眉を寄せる。
「バレリーという女性と、その子供シリルを侯爵家の離れに住まわせるための『契約条件』です。私は、彼女たちを受け入れましょう。ただし、ウィリアム様。貴方は今日この瞬間から、彼女と子供に接触することを一切禁じます」
ウィリアムの顔から、さっと血の気が引いた。
「なっ……そんな! 私の子なんだぞ! 彼女たちを救うためにここに連れてきたのに、会うこともできないなんて、あまりに酷いじゃないか!」
「酷い?」
パトリシアは冷たく鼻で笑った。
「侯爵家に婿入りした身でありながら、外に隠し子を成すなど、とんだ不名誉です。本来なら即刻離縁、貴方の実家もただでは済みません。それを『温情』で屋敷に置いてやるのです。貴方の顔を立てて。これ以上の譲歩があるとでも?」
「しかし! シリルには父親が必要なんだ! 私は、ただ父親らしいことをしてやりたいだけで……」
「貴方が父親らしく振る舞いたいのであれば、まずはロイド侯爵家の婿養子としての責務を果たしなさい。……言っておきますが、離れの周囲には私の息のかかった使用人を配します。もし隠れて会いに行くようなことがあれば、その瞬間に彼女たちを路頭に迷わせ、貴方をご実家のラヴァル伯爵家へ送り返します。いいですね?」
パトリシアの氷のような眼差しに、ウィリアムは「分かった……」と力なくうなだれるしかなかった。だが、その瞳の奥には「パトリシアは今、混乱しているだけだ。いつか分かってくれるはずだ」という、吐き気のするような甘い期待が透けて見えた。
――ウィリアムが書斎を去った後、パトリシアは『影』から届けられた一冊の厚い報告書を手に取った。
そこには、パトリシアが信じていた「黄金の記憶」を、無残に泥で塗り潰す真実が記されていた。
最初の衝撃は、その根の深さだった。
ウィリアムとバレリーの縁は、彼が十一歳の頃、亡き長兄ヘンリーの看病を通じて始まっていた。当時、多忙な両親や病弱な兄の間で放置されていた孤独な少年ウィリアムを「《《慰めた》》」のが、年上の侍女バレリーだったのだ。
だが、そこからがパトリシアの心を抉る。
十五歳――ウィリアムが成人前の多感な時期を迎えた頃、彼は当主命令の「閨教育」の相手として、慣れ親しんだバレリーを指名した。
「……学園で私に婚約を申し込んだ時も、彼はすでに彼女を《《知っていた》》」
パトリシアと出会い、共に学び、理想のカップルと称えられていた学園の三年間。ウィリアムは昼間はパトリシアに清らかな愛を囁きながら、実家の伯爵家ではバレリーとの情事に耽っていたのだ。
さらに、最も許しがたい事実が綴られていた。
パトリシアが最も衝撃を受けたのは、四年前の「再会」から現在に至るまでの、吐き気を催すような経緯だった。
報告書によれば、ウィリアムが市井でバレリーと再会したのは、パトリシアとの結婚から二年が過ぎた頃だった。
ラヴァル家を去った後のバレリーは、親の決めた商家へ嫁いでいた。しかし、病がちだった夫は半年足らずで没し、未亡人となった彼女は実家の男爵家へ戻るも「出戻りの邪魔者」として廃嫡同然に追い出されたという。
ウィリアムと再会した時の彼女は、市井の食堂で働き、痩せ細って今にも倒れそうなほど体調を崩していた。
「……そこで彼は、『正義』に目覚めたのね」
かつて十五歳の時から自分の初体験を捧げ、心身ともに依存していた女性の無惨な姿。ウィリアムは「彼女を救えるのは自分しかいない」という英雄願望に突き動かされ、パトリシアに内緒で市井に小さな家を借り、生活の支援を始めた。
そして――何よりパトリシアを逆撫でしたのは、その後の展開だ。
住む場所と金を与えられたバレリーは、泣いて感謝し、こう告げたという。
『今の私に、お礼として差し出せるものは、この汚れた身しかありません』
ウィリアムはその申し出を拒むことなく、慈悲を施すような顔で彼女を抱き始めた。
生活支援という名目の、愛人関係。
彼女は生きるために身を差し出し、彼は救済の対価としてそれを享受した。その歪な関係の果てに、三年前、息子シリルが産まれたのだ。
「『差し出せるものは体しかない』……? よくもまあ、そんな安い芝居に乗れたものだわ」
ウィリアムは、自分を「不幸な女性を救った高潔な男」だと信じている。
バレリーは、自分を「過酷な運命に流された悲劇のヒロイン」だと思い込んでいる。
だが、その二人の「純愛ごっこ」の代償を払わされていたのは、不妊治療の薬を飲み、彼を信じて待ち続けていたパトリシア一人だったのだ。
「十五歳から今まで……途絶えた時期はあっても、彼の心には常にあの女がいた。学園にいた時も、結婚してからも……一度も、彼は私だけのものだったことはなかったのね」
パトリシアは、報告書を乱暴に閉じると、それを火鉢の中に投げ入れた。
紙が焦げる嫌な臭いが立ち込める。
彼女には分かっていた。
ウィリアムという男は、自分が下した「接触禁止」の命など、一週間も持たずに破るだろう。彼は「寂しさに耐えかねた」という自分勝手な理由で、あるいは「彼女たちが心配だ」という独りよがりな善意で、必ず夜陰に乗じて離れへ向かう。
そしてパトリシアは、それすらも「利用」するつもりだった。
「……ウィル。貴方は『善意』で二人を救ったつもりでしょう。でも、その代償がどれほど高くつくか、まだ分かっていないのね」
パトリシアは、レターセットを取り出した。
宛先は、ラヴァル伯爵家当主、オリビエ・ラヴァル。
ウィリアムの実兄であり、弟を激しく憎み、そしてパトリシアに対して、隠しきれない熱い視線を送ってきた男。
『貴方が長年、《《狂おしいほどに望んでいた》》「機会」を差し上げます。明後日の夜、王都郊外にあるロイド家別邸の薔薇園へ、どうぞお一人でお越しください』
パトリシアは封蝋を押し当てた。
愛を殺した今、彼女に必要なのは「共犯者」だ。
「……さあ、処刑を始めましょう」
鏡の中のパトリシアは、見たこともないほど美しく、そして残酷な笑みを浮かべていた。
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