第2話 呪いの贈り物
静寂が支配する応接室に、雨音だけが執拗に窓を叩いている。
先ほどまでパトリシアの胸を満たしていた幸福な期待は、いまや毒となって全身を回っていた。
パトリシアは、対面に座る三人――ソファーの端で身を縮めるバレリーと、その膝の上で落ち着きなく周囲を見渡す少年シリル、そして、晴れやかな顔で「救済者」を気取る夫ウィリアムを、冷徹なまでの静けさで見つめていた。
「……それで? その方が、昔、貴方の実家にいた侍女だと?」
パトリシアの声は、自分でも驚くほど低く、平坦だった。
ウィリアムは、待っていましたと言わんばかりに身を乗り出した。
「そうなんだ。彼女は長兄・ヘンリーの最期を看取ってくれた恩人でね。その後、色々あって……家を離れたのだが……市井で偶然再会した彼女は、見る影もなくやつれていた。夫を亡くし、実家にも見捨てられ、食堂の片隅で泥水を啜るような生活をしていたんだよ」
ウィリアムはバレリーの手を、パトリシアの目の前で、いたわるように包み込んだ。
バレリーは「ああ、いけません」とでも言いたげに視線を落とすが、その手を振り払う強さは持ち合わせていないようだった。ただ、流されるままに、運命に翻弄される悲劇のヒロインを演じている――あるいは、それが彼女の「生存戦略」なのだ。
「私がいなければ、この二人は今夜のパンにも事欠く。パトリシア、君もこの子の目を見てくれ。私にそっくりだろう? 紛れもなく、私の血を分けた息子なんだ。そんな子が路頭に迷うのを、君だって見過ごせないはずだ」
パトリシアの胃の奥が、焼けるように熱くなった。
この男は、何を言っているのだろうか。
シリルは三歳。ウィリアムが市井で彼女と再会したのは四年前だと言った。
つまり、パトリシアと結婚してわずか二年目。二人がまだ新婚の余韻の中にあり、周囲から「仲睦まじい理想の夫婦」と称えられていたその裏で、彼はかつての馴染みの女と密会を重ね、種を仕込んでいたのだ。
パトリシアは、震えそうになる膝を必死で押さえ、問いかけた。
「……ウィル。貴方は私に、学園時代からずっと、私だけを愛していると囁き続けてくれたわね。結婚してからも、子供が授からないことを焦る私に『二人でいられるだけで幸せだ』と言ってくれた。あの言葉は、全て嘘だったの?」
ウィリアムは一瞬、たじろいだ。しかし、すぐに「高潔な理由」を盾に、自分を正当化する。
「嘘じゃないさ! 君を愛している気持ちに変わりはない。だが、彼女は弱い。放っておけば消えてしまいそうな女性なんだ。君のように強く、美しく、侯爵家という背景を持つ女性とは違う。彼女には、私がいなければならない。これは……男としての責任、いわば正義なんだよ」
正義。
その言葉が、パトリシアの耳の中で呪いのように反響した。
自分を裏切り、家庭を汚し、他の女に子を産ませていた事実を、この男は「正義」という美名で上塗りしようとしている。
「十一歳の時……長兄を亡くした私を支えてくれたのは、彼女だった。十八歳で家を出るまで、私は彼女に縋っていたんだ。その恩を返すのは、人として当然のことだろう?」
独白を続けるウィリアムを、パトリシアはただ、異様なものを見るような目で見つめた。
彼はバレリーを心から愛しているわけではない。
ただ、自分を頼り、自分がいなければ死んでしまうような「弱者」を支配し、守ってやっているという万能感に酔いしれているだけなのだ。
パトリシアが守ってきた「誇り」や「純潔な愛」は、彼の歪んだ自己満足の前では、あまりに無力で、あまりに滑稽だった。
その時、膝の上の少年が、ウィリアムの顔を見て笑った。
「とうたま……?」
その幼い声に、ウィリアムの顔が父親の慈愛に満たされる。
その光景は、パトリシアにとって、どんな刃物よりも深く、鋭く心を切り刻む暴力だった。
「……もう、結構です」
パトリシアは静かに立ち上がった。
その目からは、すでに涙は一滴も流れていなかった。ただ、深い、深い絶望の果てに、黒い炎が灯っていた。
「奥様……あの、私は……」
バレリーが初めて口を開いた。か細く、消え入りそうな声。
「私は、ただ、シリルが、お腹を空かせないように、と……。ウィリアム様に、甘えるつもりは……」
「お黙りなさい」
パトリシアの冷徹な一喝に、バレリーはびくりと肩を震わせ、ウィリアムの陰に隠れた。
それを見たウィリアムが、非難の声を上げる。
「パトリシア! 彼女を責めないでくれ! 悪いのは僕だ、彼女はただ流されるままに――」
「ええ、そうね。貴方が悪いわ。そして、意志を持たず、ただ『流されるだけ』で人の家庭を壊すこの女も、同じくらい罪深い」
パトリシアは冷たく言い放つと、執事を呼んだ。
「彼女たちを離れの別邸へ。食事と着替えを与えなさい。ただし……ウィリアム様。貴方の私室は、今日から本邸の西翼に移します。私の寝室には、二度と一歩も足を踏み入れないで」
「なっ……パトリシア、それはあんまりだ! 私はただ正直に話しただけで……」
「下がって」
逆上しかける夫を、パトリシアは氷のような眼差しで射抜いた。
その瞳に宿る、今まで見たこともないような「支配者」の威厳に、ウィリアムは言葉を失った。
三人が部屋を去り、扉が閉まった瞬間、パトリシアは膝から崩れ落ちた。
手の中に握りしめていた結婚記念日のプレゼント――特注の懐中時計が、床に落ちて虚しい音を立てる。
「……ああ、そう。正義なのね」
パトリシアは、ひび割れた時計を拾い上げ、その裏蓋に刻まれた『永遠の愛』という文字を指先でなぞった。
愛は死んだ。
だが、家門の血と、自らの誇りまでは死なせない。
パトリシアの脳裏に、かつて見合いの席で、ウィリアムの陰から自分をじっと見つめていた男の顔が浮かんだ。
ウィリアムが最も恐れ、そして最も劣等感を抱いている、あの「歪んだ目」をした兄の姿が。
「汚された血は……より深い闇で、塗りつぶすしかないわ」
パトリシア・ロイドの、孤独で壮絶な復讐の幕が上がった。




