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10年愛した夫に『隠し子』がいたと知った夜、私は夫の実兄の種を宿した  作者: 恋せよ恋
愛の崩壊と絶望

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第1話 黄金の記憶



 窓の外では、春の終わりの柔らかな雨が、新緑を静かに濡らしていた。


 ロイド侯爵家の本邸、贅を尽くした晩餐会の準備が整った食堂で、パトリシア・ロイドは自らの胸の高鳴りを抑えるように、そっと指先を組んだ。


「……もうすぐ、ウィルが帰ってくるわね!」


 鏡の中に映る自分は、金色の髪を完璧に結い上げ、瞳と同じエメラルドのドレスに身を包んでいる。今日は、パトリシアとウィリアムの六回目の結婚記念日だ。


 パトリシアは、名門ロイド侯爵家の一人娘として、両親の深い愛情を一身に受けて育った。誇り高く、それでいて清廉な彼女の一番の宝物は、十四歳の時に結ばれた婚約者、ウィリアムであった。

 ラヴァル伯爵家の三男だったウィリアムは、家を継ぐ立場になかったが、その誠実な人柄と端正な容姿、そして何よりパトリシアへの献身的な愛で、侯爵夫妻からも実の息子のように可愛がられてきた。



 学園時代の三年間は、まるで御伽話の一頁のようだった。

 中庭の木陰で共に書を読み、舞踏会では誰よりも見事なステップを刻む。周囲からは「理想の二人」と羨まれ、パトリシア自身も、この幸せが永遠に続くと信じて疑わなかった。

 そして、卒業と同時にウィリアムはロイド家に婿入りし、二人の新婚生活は薔薇色に彩られていた――はずだった。



「パトリシア様、お冷えになります。お召し物を一枚」


 老執事の言葉に、パトリシアは微笑んで首を振った。


「いいえ、大丈夫よ。それより、ウィルの好物の鴨のロースト、焼き加減は完璧かしら? 彼は少しカリッとした食感を好むの」


「心得ております。旦那様も、これほど美しい奥様が待っておられるのですから、急いで帰られることでしょう」


 パトリシアはテーブルに置かれた小さな小箱に目をやった。

 彼がずっと欲しがっていた、特注の懐中時計。裏蓋には二人のイニシャルと「永遠の愛」を意味する彫刻が施されている。彼がこれを受け取った時、どんなに喜ぶ顔をするだろうか。それを想像するだけで、パトリシアの胸は甘い期待で満たされた。



 やがて、屋敷の玄関ホールに馬車の車輪が砂利を踏む音が響いた。


「お帰りなさい!」


 パトリシアは淑女としての嗜みも忘れ、ドレスの裾を翻して駆け出した。

 扉が開かれ、雨の匂いと共に、待っていた最愛の夫、ウィリアムが姿を現す。


「ウィル! お疲れ様。雨が酷かったでしょう、すぐに着替えを……」


 パトリシアの言葉が、不自然に止まった。

 なぜなら、ウィリアムの背後に二つの人影があったからだ。


 一人は、雨に濡れたのか惨めなほどに痩せた、地味な身なりの女性。彼女は怯えたように視線を彷徨わせ、パトリシアの豪華なドレスを見て、さらに肩を縮めた。

 そしてもう一人。その女性の手にしがみついている、小さな男の子。


 パトリシアは息を呑んだ。


 その少年――三歳ほどに見えるその子は、パトリシアが愛してやまないウィリアムに、驚くほど酷似していた。茶色の髪、オリーブ色の瞳。その造作。


「……ウィル? その方たちは……?」


 ウィリアムは、どこか高揚したような、それでいてひどく歪んだ「正義感」に満ちた瞳でパトリシアを見つめた。彼はパトリシアの手を取ることなく、背後の女性の肩を抱くようにして一歩前に出た。


「パトリシア、驚かせてすまない。でも、聞いてほしい。彼女はバレリー。かつて私の実家で仕えてくれていた女性だ。そしてこの子は、シリル……私の…… 息子なんだ!」


 その声を聞いた瞬間、パトリシアの世界から音が消えた。

 豪華なシャンデリアの光が、ひどく遠く、冷たく感じられた。


「息子……? 冗談はやめて、ウィル。それに、今日は記念日なのよ? 質の悪い冗談は……」


「冗談なんかじゃない! 彼女は貧しさの中で、たった一人で僕との間の子を守り抜いてきたんだ。偶然再会した時、こんなに小さな子が飢えに震えているのを見て、僕は決意した。二人を助けられるのは、僕しかいないんだってね!」


 ウィリアムの頬は紅潮し、彼の言葉は、まるで悲劇のヒーローを気取っているかのように滑らかだった。

 傍らのバレリーという女性は、何も言わず、ただ涙を溜めてウィリアムの袖を握りしめている。その「受け身」で「無力」な姿が、ウィリアムの歪んだ庇護欲を煽っているのがパトリシアには一目で理解できた。


 結婚六年目の記念日。

 テーブルに並んだ冷めていく料理と、準備したプレゼントの重みが行き場を失った。


「パトリシア、君は慈悲深い女性だ。この行き場のない親子を、どうかこの屋敷で受け入れてほしい。君なら、分かってくれるだろう?」


 ウィリアムは、心底から「良いことをしている」と信じ込んでいる顔で笑った。

 パトリシアの足元から、積み上げてきた幸福の記憶が、黒い泥流となって崩れ去っていき、純粋だった愛が、その瞬間に断末魔を上げて息絶えた。


 パトリシアは、震える拳をドレスの襞に隠し、次の瞬間には、冷静に女侯爵の仮面を被った。


「……ええ。お話は、ゆっくり伺いましょうか。ウィリアム様」


 その夜、雨は激しく降り続いた。


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