二十二話 パーティのあとで
夜の喧騒が、ようやく遠ざかっていた。
ワインで汚されたドレスは、すでに着替えていた。
それでも、あの場の空気だけが、まだどこかに残っている気がした。
広間からバルコニーに出ると、冷えた夜風が頬を撫でた。
先ほどまでの音楽や笑い声が嘘のように、石の手すりは冷えていた。眼下には、月明かりを受けた庭園が静かに広がっている。草と土の匂いが、夜気に溶けてかすかに漂ってきた。
リシェルは、手すりにそっと手を置く。
絹のドレスの裾が、夜風にわずかに揺れた。
(……終わった)
そう思った瞬間、ようやく息が抜けた。
婚約披露の場。大勢の視線。
そして——セラフィアのこと。
「ここにいたか」
低い声が、背後から落ちた。
振り向くと、エリオスがいた。いつものように静かな表情。けれど、その瞳だけが、わずかにこちらを気遣うように揺れている。
「……殿下」
「探した」
「申し訳ありません。少し……落ち着きたくて」
「分かっている」
それ以上は何も問わない。ただ、彼はリシェルの隣へと並んだ。同じように手すりへ手を置く。袖と袖が触れそうで、触れない。それだけで、不思議と呼吸が整っていく。
しばらくのあいだ、言葉はなかった。
月が、庭園の木々の上に高く懸かっている。その光が、二人の足元に淡く影を落としていた。遠くで、夜番の衛兵の足音がかすかに響いて、また静かになった。
風が吹くたびに、庭の草木がかすかに揺れる。その音だけが、ふたりのあいだに満ちていた。
「……怖かったか」
エリオスが、ぽつりと問う。あまりにも率直な問いに、リシェルは一瞬だけ言葉を失った。
「……少しだけ」
正直に答える。
「でも、それ以上に——逃げたくない、と思いました」
エリオスは、何も言わずにその言葉を受け止めた。
「前の私なら……きっと、俯いていたと思います」
わずかに笑う。
「でも今は、ちゃんと顔を上げていたいと思ったんです」
「……そうか」
短い一言。だが、その声音には確かな肯定があった。それだけで、胸の奥がじんわりとあたたかくなる。
リシェルは、そっと息を吐いた。
「セラフィア様のことも……分からなくはありませんでした」
ぽつりと零す。
「あの方は、正しくあろうとして、努力して……きっと、それがすべてだったのだと思います」
言いながら、視線を庭園へ落とす。
「だから……少しだけ、苦しかったです」
責めたいわけでも、庇いたいわけでもない。
ただ——そう感じてしまっただけだ。
エリオスは、しばらく黙っていた。
そして——
「俺は、お前を選んだ」
低く、はっきりと告げる。
その一言が、胸の奥にまっすぐ落ちて——じわりと、広がっていった。
リシェルは、思わず目を伏せた。こぼれそうになるものを、堪えるように。
「……ありがとうございます」
かすかな声で言う。
——そのとき。
エリオスの手が、静かにリシェルの手に重なった。言葉もなく、視線も向けずに。月明かりの中で、その指先だけがあたたかかった。
リシェルは少しだけ目を瞬かせて——そのまま、そっと握り返した。
沈黙が落ちる。重くはない。むしろ、心地よい。二人分の体温が、指先から静かに広がっていく。
風が、また吹いた。リシェルの髪が、ふわりと揺れる。月が、庭園の木々を銀色に縁取っていた。
「……今日のこと」
やがてリシェルは、ゆっくりと言葉を選ぶ。
「たぶん、忘れないと思います」
「そうだろうな」
「きっと……書ける気がします」
エリオスが、わずかに眉を動かした。
「書く?」
「はい」
リシェルは、少しだけ笑う。
「今日、分かったんです。人の気持ちは、綺麗なものだけじゃないんだって」
短い沈黙の後、続ける。
「でも——誰かを想う気持ちは、ちゃんとそこにある」
セラフィアのことも。自分のことも。そして——目の前にいる人のことも。
エリオスは、静かにそれを聞いていた。
「……だから。今度は、ちゃんと書けそうなんです」
「そうか」
声音には、隠しようのない満足が滲んでいた。
しばらく、そのままでいた。繋いだ手のまま。月の光の下で。
やがてエリオスが、静かに言う。
「……戻るか」
「はい」
並んで歩き出す。今度は、最初から自然に手を繋いだまま。
バルコニーを後にするとき、リシェルは一度だけ振り返った。
月明かりに照らされた庭園が、静かにそこにあった。あの草と土の匂いが、まだそこにあった。
その温もりが、指先からゆっくりと広がっていく。
リシェルは、そっと目を細めた。
(……いつか、書こう。この夜のことを)
全てが——書くための、糧になる。




