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恋愛経験ゼロの私の官能小説が大流行した結果、女嫌い王太子の恋愛指南役にされました  作者: 高八木レイナ


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エピローグ

 婚約披露の夜から、ひと月ほどが過ぎていた。

 王宮の奥——王太子の私室は、静かだった。

 午後の光が窓から差し込み、部屋の中にやわらかな影を落としている。外では風が木の葉を揺らしていて、その音がかすかに窓を越えて届いてきた。


「……不思議だな」


 ソファーでリシェルの隣に座っているエリオスが、低く呟いた。


「お前が司書として秘蔵書庫にいた頃が、もうずいぶん昔のことのように思える」


 その声音には、わずかな懐かしさが滲んでいた。普段の静かさとは少し違う、やわらかい響きだった。

 リシェルは、小さく笑う。


「私は今でも、あの書庫の匂いを覚えています」


「匂い?」


 エリオスがわずかに首を傾げる。珍しいことに、その顔には純粋な興味があった。


「はい。本と紙と、少しひんやりした空気の匂いです」


 言ってから、ほんの少しだけ目を細めた。


「……それから、秘密の匂いも」


 エリオスの口元が、かすかに緩んだ。ほんのわずかに。見逃してしまいそうなほど小さな変化だったが、リシェルにはもう、それが分かった。


「お前には、ずいぶん多くの秘密を教えてもらった」


「そのおかげで……少しは成長できたと思います」


「成長?」


 聞き返す声が、どこか面白がっている。


「はい」


 リシェルは頷く。


「人の気持ちを、前よりちゃんと見られるようになりました。前は……頭で考えて書いていた気がするんです。でも今は、ちゃんと感じて書けるというか」


 言葉はゆっくりと、確かめるように紡がれる。視線が、少しだけ落ちた。


「そのおかげで、新しい本も……ようやく形になりそうなんです」


「そういえば」


 リシェルは、ふと思い出したように続けた。


「ギルベルト編集長から聞いたんですが……『禁欲のユニコーン』先生も、最近また精力的に書いていらっしゃるみたいで」


「……そうか」


 エリオスの声音が、わずかに変わった気がした。何かを思い当たるような、短い間があった。


「同じ時期に書いているなんて、不思議な気がして」


 リシェルは小さく笑う。


「……そうだな」


 エリオスは、静かにその言葉を受け止めた。


「なら、それは俺の功績だな」


「えっ?」


 思わず目を瞬かせる。


「恋愛指南を受けた結果だろう」


 当然だと言わんばかりの声音だった。


「そ、そんなことは……」


 言いかけて、止まる。


「……否定、できませんけど……!」


 顔が一気に熱くなる。

 エリオスは、穏やかに笑った。機嫌が良い時の顔だ、とリシェルは最近ようやく分かるようになった。表情そのものはほとんど変わらない。ただ、瞳の奥の光が、わずかにあたたかくなる。


「……恋愛指南、ですか?」


 少しだけ視線を逸らしながら、問いかける。どこか恨みがましい声音になってしまった。


「そうだ」


 短く答えたあと、ほんのわずかな間が落ちる。


「だが」


 エリオスは、ゆっくりとリシェルの耳元へ唇を寄せた。


「今度は……本の中ではなく、実地で教えてもらえるだろうか」


「――――っ」


 息が、止まった。

 一瞬遅れて、頬に熱が集まる。耳の先まで、じわじわと。

 振り向こうとしたその瞬間、彼の指がそっとリシェルの手を取った。

 決して逃がすつもりのない手つきだったが、強引ではなかった。


「——お前が他の誰かに教える必要はない」


 低く、静かに言った。問いではなく、確認でもなく——ただ、そう決めているというような声だった。


「……殿下」


 抗議するように名を呼ぶ。けれど、その声に本気の拒絶は含まれていない。自分でも分かってしまう。

 エリオスは、楽しげに目を細めた。


「安心してほしい」


 低く、落ち着いた声。


「今度は——試すつもりはない」


 その言葉に、胸が静かに高鳴った。

 もう練習でも、観察でもない。互いに向き合うための距離だと、言葉にされなくても分かる。


「……ところで」


 エリオスが、ふと思い出したように言った。


「恋愛指南の報酬は、まだ聞いていないな」


 リシェルは、ぱちりと瞬いた。


「あれ……まだ有効だったんですか……?」


「もちろん」


 当然だと言わんばかりの声音だった。色々なことがありすぎて、すっかり忘れてしまっていた。

 リシェルは少しだけ視線を落とし、考える。

 窓の外では、庭の木が風に揺れている。光が、その影を床に柔らかく映していた。

 それから、そっと手を伸ばした。

 指先が、エリオスの頬に触れる。

 あたたかい肌の温度が、指先にじかに伝わってくる。エリオスが、わずかに息を止めた——気がした。


「……それなら」


 小さく息を吸う。言葉にするだけで、胸がくすぐったくなる。


「……キスを、してください」


 一瞬、静寂が落ちた。

 外の風の音だけが、かすかに続いている。

 エリオスはわずかに目を見開いた。それから——口元と、目の奥に、隠しきれないものが滲んだ。その表情は、王太子のものではなかった。


「……"してください"か」


 低く、かすかに掠れた声で繰り返す。


「そんなふうに言われたのは、初めてだ」


 リシェルの頬が、さらに熱くなった。


「い、言わせたのはどちらですか……!」


「そうだな。報酬だから」


 笑いを堪えているような声だった。

 エリオスの手が、リシェルの手をやさしく包み込む。指が絡む。もう迷いはなかった。

 ゆっくりと距離が縮まる。

 互いの吐息が先に触れ——そして、唇が重なった。

 逃げるためでも、確かめるためでも、試すためでもない。ただ、互いを想う気持ちのままに。やわらかく、静かに。

 窓の外では、王宮の庭にやわらかな光が落ちていた。

 離れたあと、リシェルはしばらく目を開けられなかった。

 やがて、そっと瞼を持ち上げると、エリオスがすぐそこにいた。いつもの無表情ではなく、どこか困ったような、それでいて満足そうな顔をしていた。


「……何ですか、その顔は」


「何でもない」


「絶対何かあります」


「……お前が可愛かっただけだ」


 今度はリシェルが固まる番だった。


「そういうことを、さらりと言わないでください……!」


「事実を述べただけだ」


 まったく動じない声音だった。

 リシェルは両手で顔を覆う。指の隙間から、耳の先まで赤くなっているのが自分でも分かった。

 エリオスは、その様子をしばらく黙って見ていた。

 それから、静かに言う。


「書庫で初めて会ったとき」


「……はい」


「お前は、必死に夜の女王の本を隠そうとしていたな」


 リシェルは、指の隙間からそっと顔を覗かせた。何を言うつもりなのか、と眉を釣り上げる。


「……それが何か?」


「あれも、可愛かったな」


「……最初から、ですか?」


 思わず問い返すと、エリオスはわずかに瞳の奥をやわらかくした。


「……あのとき、すでに目が離せなかった」


 一拍、置く。


「——恋に気づいたときには、もう手遅れだった」


 その言葉に、リシェルは何も言えなくなる。

 エリオスの言葉が、じわりと胸に広がる。

 あの書庫で——ただ"本が好きな誰か"として向き合っていた時間を、思い出す。

 少しの沈黙。


「……今だから言うが」


 ふと、エリオスが低く言った。


「……何ですか?」


「お前を膝の間に入れて、書かせていたとき」


「……っ」


 リシェルの顔が、みるみる赤くなる。


「……あのときは、正直なところ」


 わずかに間を置く。


「理性を保つのに苦労した」


「……え?」


 リシェルが目を瞬かせる。


「思考を逸らすために、どうでもいいことを考えていた」


「どうでもいいこと……?」


「……母上の顔とか」


「……王妃様のご尊顔を……?」


 思わず聞き返すと、エリオスはわずかに目を逸らした。


「……効果はあった。少なくとも、問題は起きなかった」


「……っ」


 その言葉の意味を理解した瞬間、顔が一気に熱くなる。


(……あのとき、殿下も……?)


 思い出してしまい、余計に顔が上げられなくなった。

 しばらく、沈黙が続く。

 リシェルは両手で顔を覆ったまま、じっとしていた。

 このままでは、負けた気がした。

 それは、少し悔しかった。

 リシェルは、そっとエリオスの袖を引いた。


「……殿下」


 呼びかけて、顔を上げる。

 そのまま、迷う前に——軽く、唇を重ねた。

 触れるだけの、短いキス。


 一瞬——エリオスの動きが止まった。


 わずかに目を見開いたまま、こちらを見ている。

 まるで、何をされたのか理解するまで、思考が追いついていないように。


(……え)


 その反応に、リシェルの方が一瞬戸惑う。


 ——次の瞬間。


 その瞳の奥が——ゆっくりと変わる。

 静かに、熱を帯びていく。

 逃がすまいとする、捕食者のそれに。


(あ……これは、まずい)


 腕を引かれた。


「……っ」


 次の瞬間には、逆に引き寄せられていた。

 さっきよりも、深く。

 逃げる隙もなく、唇が重なる。

 わずかに角度を変えられて——息が奪われる。


「……それで終わりか?」


 低い声が、すぐ近くで落ちた。


(してやられた……)


 それが悔しくて、赤い顔のまま彼を睨むけれど——恥ずかしさから、視線はすぐに逸らしてしまう。

 けれど、それを認められない。何とか口を動かした。


「……恋愛指南は、まだ終わっていません」


「ああ」


 エリオスは、楽しそうに頷く。


「今度は、きちんと向き合う形でな」


 窓の外の光が、ふたりの上にやわらかく落ちていた。


 ——あの書庫で生まれたものは、今も胸の奥に、確かに残っていた。






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